【追悼】[1991.10]今も変わらぬ貫禄のステージを見せつけた "エル・マエストロ" ジョニー・パチェーコ
文●山口元一 texto por GEN-ICHI YAMAGUCHI
サルサのレジェンド、ジョニー・パチェーコが2021年2月15日、85歳で亡くなりました。
以下の記事は、月刊ラティーナ1991年10月号に掲載されたものです。追悼の意を込め、ここに再掲致します。
7月23日、東京渋谷のクラブ・クアトロ。“エル・マエストロ” ジョニー・パチェーコの自己の楽団としては初めての来日公演である。が、薄暗いフロア内は多数の椅子とテーブルが並べられているにもかかわらず空間が目立つ。寂しいといえばそうだが、何せ10年以上目立った話題に欠ける人なのだから仕方がない。いくら名人とはいえ名前だけで客は呼べない。ポピュラー・ミュージックの世界は厳しいのである。間もなく白い衣装に身を包んだパチェーコが登場。お決まりのMCもそこそこにお馴染みのパチェーコ節でステップを踏み始めた。いつもと何ら変わるところはない。ビューティフルな大都会トーキョーでの公演も、超一流の芸人にとっては何千回目かのルティーン・ワークに過ぎない。
ジョニー・パチェーコ。それはある人にとっては “サルサの神様” であり、同時にコロンビアだベネズエラだと馴れない音に疲れた耳を月に一回くらい癒してくれる古い友人である。またある人にとっては、すっかり過去の遺物となったサルサの生きた化石かも知れない。しかし本誌のニュース欄等を注意して見ておられる読者はパチェーコが今も結構まめにクラブの出演をこなしているのにお気づきだろうか? サルサがラテン音楽をリードしてきた時代は既に過ぎ去り、それより少し前にニューヨークもラテン音楽の中心地ではなくなった。にもかかわらずニューヨークは今も数百万のラティーノの暮らす街であり、バリオの店先のラジオからは、以前より機会は減ったとはいえ、サルサが流れている。そんな街でパチェーコは30年近くにわたって夜のお務めを欠かしたことのない数少ないミュージシャンのひとりなのである。
今回のパチェーコ楽団は総勢10人。トランペット2本、ティンバレス抜きのソノーラ編成で、これはファニア創成の64年からだいたい変わっていない。70年代からしばしばパチェーコと行動を共にしているエクトル・カサノバがリード・ポーカルを務め、セカンド・ボーカルにルイシート・ロドリゲス。他のメンバーは私には聞き覚えのない人が多かったが、ボンゴセーロはウィリー・コローン楽団のティンバレス+ドラム奏者として昨年来日している。このメンバーでパチェーコはパーマネントに活動をしているのだろうか。コンガとボンゴの微妙な呼吸の乱れが初日の演奏にはしばしばあらわれた。だが全体の演奏は迫力があった。レコードから受ける印象よりもずっとハードで、ひょっとしたら今のパチェーコは気の抜けたような演奏をしているのでは、という一部の危惧は見事に吹きとんだ。 セカンド・ボーカルのルイシート・ロドリゲスが実にいい。実は私、この人は顔も名前も知らなかったのだが、詳しい人に教えていただいたところによると昔のファニアのキューバっぽいものには時々顔を出していたという。ヒバロ風というか、あのエクトル・ラボーに似た声質・節回しの持ち主で、キューバ風の朗々とした歌を聴かせるエクトル・カサノバとのコントラストがいかにもニューヨークの楽団らしくカッコいい。初日のハイライトは「ソイ・エル・イホ・デ・シボネイ」。アップ・テンポにあわせ眉を吊り上げて鋭いコロを飛ばすパチェーコの姿は、ファニア黄金時代を記録した映画「アワ・ラテン・シング」を思わせるものがあった。ただし曲の後半のフルート演奏は音量も小さくかなりしんどそう。実はパチェーコは3年前持病の悪化で公演先のベネズエラで倒れ、来日を中止しているのである。
ジョニー・パチェーコは1935年、ドミニカ共和国のサンティアゴ・デ・ロス・カバジェーロスに生まれた。父は当地の高名なバンド・リーダーだったが、悪名高い独裁者トルヒーヨ大統領に反抗、一家でニューヨーク移住を余儀なくされる。1946年頃のことである。その後父の手ほどきでパチェーコはバイオリンとフルートを勉強し始め、やがてスクール・バンドで演奏をするようになるが、当時のアイドルはマチートとティト・プエンテであったという。後年彼らと共にプレイをするようになるとは想像だにしなかったと彼は述懐している。高校卒業後仕事に就くが給料の安さに失望してすぐに止め、メレンゲ・バンドにアコーディオン奏者として参加、プロの道を歩み始める。因みにパチェーコの初録音はこの頃である。アコ入りメレンゲの行く末に物足りなさを感じていた彼はジュリアード音楽院でパーカッションを学び、卒業後ザビア・クガート、ペレス・プラードなどの一流オーケストラに参加する。
パチェーコにとって転機となったのは1959年。この年の暮れに彼はチャーリー・パルミエリと知り合い、オルケタ・アラゴンを手本にチャランガ楽団 “ドゥボネイ”を結成する。ドゥボネイはチャランガ・ブームに沸くニューヨークて人気の的となり、同時に彼は自分でも別にチャランガ楽団を結成、そちらも大当たりで人気ミュージシャンとして不動の地位を獲得した。
しかしここで終わっていたら彼は多くの人気ミュージシャンのひとりとして記憶されるに止まったろう。彼の存在を特別なものとしたのは言うまでもなく1964年のファニアの結成である。いさぎよく人気のチャランガ・スタイルを捨てソノーラ・マタンセーラを手本に新しいバンド “ヌエボ・トゥンバオ” を結成すると同時にラテン人による、ラテン人のための、ラテン音楽のレーベル “ファニア” を旗揚げしたのである。その後の彼とファニアの目覚ましい活躍については、ここでは割愛させていただく。
7月28日、日比谷野外音楽堂のカリビアン・カーニバル(この名前もだんだん違和感がなくなってきた)。反則攻撃の連続で観衆の目を点にしてしまった東京パノラママンボボーイズ、今をときめくデイヴィッド・ラダー、案外マシな演奏とサービス精神で会場を沸かせたラス・チカス・デル・カンにつづいて我らがマエストロはトリで登場だ。どうみても一番地味な大御所が最後に客を静かにさせてしまうのでは、と私はまた例によってヤキモキしていたのだが、これまた余計な心配だったようだ。もっともそれまでに3時間近く陽気なリズムの洪水にひたり、すっかりリラックスしていたあの時の会場は音さえ鳴っていればよかったのかも知れない。実際あの日の野音のPAは調子が悪く、特にパチェーコの時は突然ベースが大きくなったり聴きづらい場面も多かった。でもうがった見方はよそう。ルイシート・ロドリゲスの活躍が少なかったのは個人的に残念だったが、打楽器隊の息もピッタリで、バンド全体のアンサンブルは完璧だった。60年代のファニアのレパートリーは誰が聴いても楽しいと私は納得したい。特に「キンバラ」では昨年のオスカル・デ・レオンに負けないくらい会場は沸いた。
新しいアイディアや緊張感はなかったが、パチェーコはサルサの現在をありのままに届けてくれた。かつてのように「10年に1度しかないサルサ」の公演ではないのだから、我々の方も楽しく聴きとばしたい。パチェーコは20年前のまんまであったが私は「伝統芸能」とか呼びたくない気分だ。ニューヨークのクラブそのままに “サルー!” を連発したマエストロは、我々のインタビューの予定もぶっちぎって次の公演地へと向かったのだった。
(月刊ラティーナ1991年10月号掲載)
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