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[2021.12]【沖縄・奄美の島々を彩る歌と踊り17】 近代沖縄 芸能を地域に伝えた人物−玉城金三の活躍−

文:久万田くまだすすむ(沖縄県立芸術大学・教授)

 芸能は、時に異能を持つ人物の働きが、極めて広い範囲に影響を及ぼすことがある。戦前期に沖縄本島北部地域に様々な舞踊や芸能を伝えた玉城金三という人物がいる。玉城金三(1878年首里寒川生、1957年没)は、俗称を黄金山クガニヤマーという。陸軍歩兵軍曹として日露戦争へ出征し、その後名護間切(現名護市)へ移住した。彼は明治・大正時代を通じて首里と那覇の街の中間にあった寒川スンガー芝居の役者としても知られていた。名護に移住後は一時期役者を廃業したと伝えられるが、後々になって名護市字城で三人芝居の興行を行うなど再び芸能界に復帰した。その後、大阪万国博覧会(1970年)が開催された年には日本本土公演も行ったという。こうした舞台での芸能活動と副業としていた金細工のかたわら、大正末期から昭和初期にかけては大宜味村、東村、羽地村(現名護市羽地地区)の村々を回って多くの舞踊や彼独特の創作芸能を伝授して歩いた。一例を挙げると、名護市東部の辺野古では、1931年頃から太平洋戦争後にかけて玉城金三を招聘したことによって多くの舞踊曲の演目を彼から伝授されている。「七福神」、「俄仙人」、「千代千鳥」、「松竹梅」、「鶴亀」などが代表的な演目である。その一方で副職である金細工職の技術を生して、小道具や衣装の仕立てまで指導したという。彼が指導・伝授した舞踊の特徴は、芝居的要素を導入して創作された打組踊うちくみおどりである。また各地に伝わる同名の舞踊曲でも、すべて細かな部分の型を変えており、各々の地域独特の演目として完成させたという。さらに玉城は舞踊だけではなく、琉球古典音楽でも独特な節回しの歌三線を指導するなど芸能の才にたけた人物であった(『辺野古誌』1998年参照)。
 沖縄の民謡研究家仲宗根幸市氏は、玉城金三の足跡について次のように述べている。

 クガニヤマー(註:玉城金三)は若いころからアンニャムラに通い、スンガー芝居の一員となり、名優渡嘉敷守良師匠の高弟であった。そんなことからクガニヤマーは、首里のスンガー出身ながら人々に蔑視されてきたチョンダラーたちを理解し、彼らの多彩な芸に惚れ込み、スンガー芝居の出身芸人として1950年代まで、やんばる(註:沖縄本島北部地域)で指導普及にたずさわってきた。そういう意味では、最後のチョンダラー芸人といってよい。やんばるに日本本土の祝福芸やチョンダラー芸を伝承し、各村落の豊年祭に定着させた功績は大きい。(仲宗根幸市『恋するしまうた 恨みのしまうた』2009年より)

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