[2023.11]ミルトン・ナシメントが導く魔法の森の秘密〜映画『ペルリンプスと秘密の森』
文●圷 滋夫(映画・音楽ライター)
ブラジルのアニメーション作家アレ・アブレウ、9年ぶりの新作『ペルリンプスと秘密の森』(2022)がもうすぐ日本で公開される。世界最大規模のアニメ映画祭であるアヌシー国際アニメーション映画祭で最高賞と観客賞をダブル受賞した前作、『父を探して』(2013/日本公開は2016年)もこのコラムで紹介しているが、その中で “列車が山の間から煙を上げながら現れる” 場面について、「まるでミルトン・ナシメントの『ジェライス』(1976)のジャケットのようだ」と書いている。そして本作では、奇しくもそのミルトン・ナシメントの曲が重要な役割を果たし、物語を導いてゆくのだ。
本作は巨人によってその存在が脅かされている、魔法の森を救うために派遣されたクラエとブルーオの物語だ。クラエはテクノロジーを駆使する太陽の王国からやって来て、オオカミの顔にキツネの尻尾を持つ。ブルーオは自然との結びつきを大切にする月の王国からやって来て、クマの顔にライオンの尻尾とホタルの目を持っている。そして二つの正反対の国は全く異なる文化を持ち、100年以上も対立していた。しかし二人は森を救うと言われている「ペルリンプス」という存在を探し求めるうちに、少しずつお互いが持つ能力を認め合い、やがて協力し合うようになるのだが…。
物語の舞台は、最後の数分以外全て鬱蒼とした森の中だ。主な登場人物はクラエとブルーオ以外に、終盤で二人の前に現れる鳥の姿をした老人だけで、ほとんどクラエとブルーオの会話で物語が進んでゆく。それでも森には大小様々な生き物がいて、見たこともないような多様な植物が繁殖し、それらが常にスクリーンから溢れ出るように描かれている。また二人の会話からは様々なイマジネーションが広がり、それらは宇宙にまで飛翔する。そしてその表現はまさにアニメーションでしか成し得ない独創的なもので、特にその無限とも思える色彩のグラデーションが、圧倒的な自然の驚異として迫って来る一方、イメージの爆発がまるでスタンリー・キューブリック監督『2001年宇宙の旅』(1968)のようにサイケデリックに広がり、その美しさは息を呑み言葉を失ってしまう程だ。
またそのむせ返るような生命力は、まるでこの森そのものが主人公であるかのようなイメージを観る者に抱かせる。そしてその豊かに匂い立つ森のイメージが強ければ強い程、我々が最後に目にする光景の衝撃も強くなるのだ。クラエとブルーオは本当は何者なのか? 巨人が象徴するものは何か? ペルリンプスとは一体何なのか? そして美しい魅惑の森の運命は? それらの答えが全て明かされた時、単なるアニメのファンタジーの世界ではない、我々が現実に生きるこの社会の問題を忽然と突きつけられ、ただただ呆然とするしかない。例えばその一つが、クラエとブルーオが何度も相手の過去の行為に遡って言及しながら揶揄し合う姿だ。今なら誰もがパレスチナとイスラエルのことを思い起こすだろう。それでも二人が対話と相手への共感をもって対立を乗り越えて行く姿は、未来への希望でもあるのだ。
話をミルトン・ナシメントに戻そう。まずスクリーンにいくつかの会社ロゴが映し出され、すぐ黒バックに文字が浮かび上がる冒頭から、8つの音で構成されたメロディーが、不思議な打楽器の音で提示される。やがてそこに鮮やかな色が飛び交いだすと、同じメロディーを少年のコーラスが歌い始める。スティーヴン・スピルバーグ監督『未知との遭遇』(1977)の、謎の飛行物体と交信をするための5音階を思わせる、シンプルながら印象的なこのメロディーは、熱心なナシメントのファンであれば聴き覚えがあるかもしれない。そう、これは1988年のアルバム『ミルトンス』に収録された曲、「Bola de Meia, Bola de Gude/毛毬にビー玉」の歌い出しのメロディーをアレンジしたものなのだ。ちなみに少年のコーラスは、ナシメント自身の作品で度々使われるナシメント印のアレンジだ。
『ミルトンス』はナシメントの歌とギターにもう一人の奏者が加わり、ほとんどの曲がデュエットで演奏された異色作とも言えるアルバムだ。「毛毬にビー玉」は、その二人いる合奏者のうちナナ・ヴァスコンセロスのパーカッションが加わっている(もう一人はピアノのハービー・ハンコック)。ヴァスコンセロスと言えば前作『父を探して』に劇伴の演奏者として参加し、その特徴的な声と多彩なパーカッションを聴かせてくれたが、残念ながら『父を探して』の日本公開前の2016年3月9日に亡くなり、予定されていた自身のエグベルト・ジスモンチとの来日公演は、ジスモンチの単独公演になってしまった。
ヴァスコンセロスとナシメントは、共にアフロ・ブラジリアンとしての音楽的な感性で繋がっていて、60年代終わりの出会い以来何度も共演を重ねながらお互いの音楽を切磋琢磨して来たのと同時に、各々の活動がブラジル音楽を世界へ広めたという意味でも、盟友と言えるだろう。そんな親友であり同士である二人のデュエット曲が、クラエとブルーオの友情がテーマの一つとなった映画で、二人の姿に寄り添うように印象的な使われ方をしているのが、個人的には感慨深い思いがしてならない。
8つの音のメロディーは、音楽を担当したアンドレ・ホソイのアレンジにより様々なリズムと楽器で変奏され、その後もメインテーマとして何度も登場する。それでも抽象的に解体された短いメロディーでは、たとえナシメント・ファンだとしても「毛毬にビー玉」だと確信するのは難しい。それが映画も中盤を過ぎる辺りで原曲の形をとどめたアレンジで曲が流れ、「やっぱり!」と膝を打つ。そしてエンドロールが流れると遂にナシメント本人の歌が聴こえてきて、劇場を満たす原曲の響きとともにカタルシスが訪れる。しかもそれはデュエットによるシンプルなアレンジのオリジナルではなく、オーケストラと少年のコーラスを従えた祝祭感あふれるアレンジのライブ・バージョン(アルバム『アミーゴ』より)で、本作の空気感により合っている完璧な選択だ。
そもそもミルトン・ナシメント(と彼が中心となったミナス派)の音楽には、アフリカ由来のプリミティヴで雄大な自然を感じさせる部分や、複雑なコードと進行によるプログレッシヴ・ロック的でスペイシーな広がりや浮遊感もありながら、アマゾンの森に住むインディオの土着的な影響も受けていているのだが、それらの特徴は全て本作で描かれた内容とも共通する要素なのではないだろうか。またアンドレ・ホソイの自然の音や環境音と分かち難く融合された劇伴にも、かなりミナス派の影響が感じられる。さらに言えば「毛毬にビー玉」の歌詞も(もちろん有り得ないが)本作を観てから書いたのでは?と思うほど内容とリンクしているので、もしかしたら本作の企画はナシメントの音楽ありきで進んだのでは?と勝手な妄想までしてしまう。
もちろんミルトン・ナシメントのことを全く知らなくても、シンプルな分かりやすさと強い衝撃が見事に融合したストーリーと、イマジネーション豊かな高い芸術性、そしてその背景に見え隠れする政治的にも社会的にも鋭い批評性が、奇跡的なバランスで共存している本作を十分に堪能することが出来るだろう。その上でもしミルトン・ナシメントと彼の音楽を知っていれば、より一層さらなるお楽しみを味わうことが出来るのも確かなのだ。そんな一粒で二度美味しい本作の奥深さを、ミルトン・ナシメントを知っている方もそうでない方も、是非劇場で確かめて欲しい。
◇サントラ盤の国内盤が12/1に発売されます。
(ラティーナ2023年11月)
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