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[1982.04]連載 ものがたり 日本中南米音楽史 〜「桶胴」の皮を張ったコンガ、デンデン太鼓のボンゴ…… 日本ラテンの創成期は苦難の連続であった

文●青木 誠

この記事はラティーナの前身である雑誌「中南米音楽」の1982年4月号に掲載されたものです。当時の文章をそのまま掲載いたします。
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■日本ラテン音楽前史

 これまでに日本のタンゴの歴史をみてきたがそれだけでは「日本中南米音楽史」の看板に偽りありというものである。タンゴ以外のラテン音楽の事情はどうだったか。キューバ音楽やブラジル音楽はいつ頃から演奏されはじめたのか。その疑問をカセット・レコーダーとともに小脇に抱え、某日、鷺沼の見砂直照氏のお宅をたずねることにした。

 ラテン楽団といえばまず氏の「東京キューバン・ボーイズ」を思いつくが、氏がこれを結成したのは戦後のこと、戦前はやはりタンゴバンドをやってらした。いったい戦前のラテン音楽はどんな様子でしたかと率直に質問すると
「どんなっていったってーー」
 と、ちょっと一呼吸あって、
「影も形もなかったです。ラテン音楽という言葉さえありませんでした」
 とキッパリ明言された。
「戦前にあったポピュラー音楽は、スイング・ジャズ、ウェスタン、ハワイアン、それとタンゴ、それだけです」
 やはり!
「そりゃァ、レコードは聞けました。ドン・アスピアス楽団のRCAのS盤が日本のビクターから出たのが昭和6年です。アメリカ発売の翌年ですからずいぶん早かったわけですよ。おなじ頃にレクオーナ・キューバン・ボーイズの「シボネー」と「アマポーラ」が裏表になってるの、それに「ジェラシー」もでた。私は当時音楽学校の学生だったから、クラシック一辺倒で、ただおもしろい音楽だなと思ったていどでした。けれど、そういう音楽をやる日本のバンドはついにあらわれなかった。ごく特別のファンや研究家はいたか知れないが、私たち音楽家が手をつけることはなかったですね」
 ジャズのほうでも戦時中にあらわれたモダン・ジャズ(当時は “バップ”とよばれた)が日本にきたのは10年ほど遅れた戦後のこと。基地回りのジャズメンが「バップをやれ」といわれたが、何のことかわからなかったという話もある。

 氏は、めずらしい物を見せましょうと、一枚の楽譜をとり出した。
「これがドン・アスピアス楽団の演奏で世界中にひろまった『南京豆売り』の楽譜です。アメリカの楽譜出版社 “エドワード・B・マークス”の社長がキューバでこの曲をみつけ、大儲けしたというヤツ。これでキューバ音楽が世界中に宣伝されたんだね。楽譜の最初の頁の下にある著作権表示を見てごらんなさい。初版は1928年とありますね。私のこれは1932年版で、第三版にあたります。さァ、つぎはリズムの表示です。“フォックストロット” とあるでしょう。これが初版のときは “ソン” と書かれていた。当時のキューバのリズムです。でも、無邪気なアメリカ人はこれを “ソング” のミス・プリントと思っちゃって、第二版では “ルンバ・フォックストロット” に変えられた。ところがその “ルンバ” が何のことかわからない。そこで第三版では “ルンバ”  をとってただ “フォックストロット” にした。これなら当時アメリカで流行したダンス・ステップだからわかりが早い。1930年代にはアメリカでさえ、“ルンバ” が何か、チンプンカンプンだったわけだ」

 記録によると、キューバのドン・アスピアス楽団がニューヨークで評判になったのが1930年。「シボネー」の作曲家エルネスト・レクオーナが「レクオーナ・キューバン・ボーイズ」で世界中をまわるのはその2、3年あとのことだが、こうして炸裂したキューバ音楽のブームは、満州事変前後の門を閉じ、なかでグジュグジュ燃えていた日本列島にまでは及ばなかったようである。
「それで、そのうち戦争ですからね。そうなればジャズもラテンもないわけで、私は戦時中、新東宝の慰問団にいまして、長谷川一夫や山田五十鈴といっしょに旅回りをしてましたよ」
 ラテンの総帥見砂直照氏の戦前タンゴ時代のお話、耳がおっこちそうになり、あわててカセットを裏返しにする……


 氏はやはり東洋音楽学校出身である。専攻はチェロだが、オーケストラではコントラバスを弾く約束で月謝をタダにしてもらった。サキソフォーンの阪口新がおなじチェロの上級生にいた。いまはクラシックのチェロの重鎮吉田貴寿とは同級で、彼はチェロ専攻なのにバイオリンも達者で、アルバイトで映画館の楽士をやっていた。
 その吉田氏に誘われて、映画館にチェロをかついで仕事にいったこともある。チャンバラ映画である。おなじみのチャンチャンチャン・スチャラカチャンをやらなくてはいけない。楽譜はあるが、これが変テコな楽譜で、四分の四だか、四分の二だか、拍子の指定がない。しようがないので、エエイ、ママヨと初見で弾きだしたら、氏が半分もいかないうちに終わってしまった。倍のテンポだったわけである。
 学校を出て、すぐダンスホールの仕事をはじめた。最初のバンドが国華ダンスホールの伴薫の楽団だった。
 その当時の写真を見せて頂く。

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見砂直照は、音楽学校を卒業してすぐ伴薫の楽団で
チェロとベースを担当した。右から二人目が見砂直照。

 氏はたいていチェロを持っていて、よこにべースが寝かせてある。松原與輔の楽団、宗倫安の楽団の写真もあった。きちんと背広を着て、髪はポマードでかたくまとめ、いずれも堂々とした偉丈夫の楽士揃いである。いまのGパン姿のミュージシャンとはずいぶんちがう。
「おもしろい話があるんだ。この時代にアルゼンチン・タンゴを原語でうたえたのは三人しかいなかった。一人は吉田秀士。もう一人は倉田の金サン。そして私です。なにしろ松原のオヤジさんや宗さんの所に呼ばれたときは、ベースと歌が両方できるというのでひっぱられたんです。当時、評論家の高橋忠雄さんがよく来てくれて、こううたえ、ああうたえと、教えてくれたものです。もちろんカナ付きスペイン語だからいま思うと歌手なんてものじゃかったですがネ」

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松原與輔とオルケスタ・アルヘンティーナ。
左端が松原、左から三人目が見砂。

 たぶん昭和10年頃、川口のダンスホールではじめて自分の楽団をつくった。そして昭和11年、アコーディオンの吉田秀士と京都にわたり、東山ダンスホールにおさまることになる。
「これは京都の九条山の山中に、例の造船業の尼崎三之助がつくったダンスホールですよ。とにかくダンスホールのためだけに建築した立派なもので、大阪や神戸から金持ちのダンス狂が夜ごとあつまりました。そこに三年いて、昭和15年11月、ホールが閉鎖されて東京にもどりました。そして日劇のオーケストラにはいったあと、楽団『南十字星』にくわわりました。これは新東宝に属して海軍省嘱託の慰問団でしたから、長谷川一夫や山田五十鈴といっしょに、軍にいったり、工場にいったりしたもんです。ですから、終戦を迎えたのは高岡に慰問にいったときでした」
 誰に話を聞いても、戦時中はお熱にうかれたまわりの喧騒にペロリと舌をたしながらも表面上は歩調を合わせ、いわば現場にいながら時代を逃れることに必死だったようである。しかし、戦後とともに、人生の一大転機がやってくる。勝負どころである。

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戦時中は、楽団『南十字星』に加わっていた。

「終戦で『南十字星』をやめました。とにかく戦時中は、酒は呑むワ、バクチはやるワ、そんなことじゃどうしようもないからねェ。それでもう一度コントラバスの先生をたずねて勉強しなおし、N響にはいりました。それが半年ほどでしたか、そのうち麹町にクラブ『エスカイヤ』ができて、ここでバンドをつくったんです。昭和23年でしたか」

 日本の洋楽史上、「エスカイヤ」がはたした役割りは相当なものである。開店と同時にここにはと四つの楽団が登場する。南里文雄の「ホット・ペッパーズ」、フランシスコ・キーコとレイモンド・コンデというフィリピン・ジャズマンのバンド、この二つがジャズで、これと交替するタンゴ楽団は早川真平の「オルケスタ・ティビカ東京」と見砂直照の「クラルテ」である。
「こんんなととがありましたよ。あれはキーコかコンデか、どちらかだと思ったけど、ある日『こんな曲はどうだい』といってワン・コーラスだけ書いた譜面をもってきた。それがいい曲なんだ。で、四つのバンドが譜面を写して、それぞれのスタイルでやったんです。それが『ベサメ・ムーチョ』だとわかったのは、そうですネ、半年位たったあとでした。当時はそんなものでした」

■「キューバン」産みの苦しみ

 さて。
 先月号にも書いたが、終戦と同時に在日占領軍向けのいわゆる進駐軍放送がはじまった。放送開始は昭和20年9月3日。東京、大阪、名古屋、札幌、福岡など全国11カ所に放送局が置かれ、それぞれコール・サインがきめられた。東京はWVTR、大阪はWVTQ、名古屋はWVTC、札幌はWLKD、福岡はWLKIである。もちろんこれをふつうのラジオ受信機で聴取することができる。戦時中、洋楽統制で耳を奪われた音楽ファンはあらそって進駐軍放送にかじりついた。
「いや、これはもう大変なものでした。音楽が好きとか嫌いとかじゃなく、老いも若きもみんなが進駐軍放送を聞きまくりましたね。われわれ専門家にしても、このときはじめてカウント・ベイシーとかデューク・エリントンなどのジャズの大御所を聞いたんです。それといっしょに耳にしたのがザビア・クガートです。ガバーッと聞こえてきた。私、もう、すっかり認れこみましてね、これは、日本でも、こういうバンドがあったらいいなと思いました。『エスカイヤ』でコンチネンタル・タンゴの『クラルテ』をやりながら、夢はザビア・クガートのほうにとんでたわけです」
 そのうち進駐軍放送からしきりと聞こえる「南京豆売り」が気に入って、ああいうのをやろうと話がまとまり、四つのバンドからメンバーをピックアップし、いまでいうリハーサル・バンドをつくることになった。名トランペッター南里文雄が看板である。それをつづけているうちNHKの人が聞きつけて番組でとりあげることになり、ここに「東京キューバン・ボーイズ」の前身が誕生する。ここのくだりは「中南米音楽」誌の昭和28年8月号に氏の書かれた「東京キューバン・ボーイズ誕生」の記事があるので、それを引用したい。
「スウィング・バンド、タンゴ・バンドしかなかった当時 “ルンバ・バンド”(エスカイヤ・ルンバ・ボーイズ)という名前ではじめたのが昭和24年1月のNHK「バンド・タイム」の放送からでした。メンバーもトロンペットの南里文雄氏を中心とした各楽団のピック・アップで、寄合世帯といった形でした。
 トロンペット南里文雄、ピアノ佐々木典年、フルート奏者がいなかった関係上フルートのかわりにバンドネオンを使い、ティピカ東京の早川真平君が受け持ってくれました。バイオリンも三人、入れ替りで弾いてくれ、打楽器は目下コメディアンで日本劇場や日劇小劇場で活躍しておられる市村ブーチャン(俊幸)と、南里文雄バンドのハナ肇君がつき合ってくれました」

 そこで、問題は打楽器だった。当時ラテン・パーカッションと名がつくものは影も形もなかった。まるでないのである。ないッたら、何もない。けれど、どうしてもパーカッションがないことにははじまらない。とりわけボンゴが欲しかった。それを音楽評論家の高橋忠雄さんに話すと
「ボンゴ? ン」
といって、おもちゃのデンデン太鼓を六つ持ってきた。それを枠につるして、スティックで叩いたらどうかという。さすが音楽評論家である。発想がトンでいる。ついでに高橋氏にはNHK出演のときにデンデン太鼓ボンゴを演奏して頂いた。
 つぎにマラカス。
 バンドに鈴木一男というギタリストがいて、氏がマラカスが欲しいと口にしてたら、一週間ほどして何か持ってきた。鈴木氏のおじさんがヤシの実の煙草入れを二つ持っていた。それを改造し、なかにSP時代の鉄のレコード針をいれ、柄をつけて、マラカスに仕立てた。なるほど必要は発明の母である。氏によるとこの国産マラカス第一号は物凄くよい音がしたそうである。

 そしてコンガ。
 この苦心談はふたたび氏の原稿を引用することにしよう。
「コンガについての知識はおそらく日本でだれ一人知っておられなかったようです。そこでこの道の権威で南米に行かれた高橋忠雄氏にお伺いしたところ、氏もコンガだけは見てこられなかったとのこと。がっかりしていたおり、ザビア・クガート楽団が出演した映画『姉妹と水兵』を見るにおよんではじめてコンガなるものを眼のあたりに見ることができました。映画なので、構造、寸法、材料などはよくわかりませんでしたが、ともかく作ってみました。いろいろ研究すること六ヵ月ばかり、出来あがって出た音が本物に近かったときの喜びは口に出していえないほどでした。
 皮のことではおもしろいことがありました。日本に昔からある太鼓で「桶胴」というのがあり、この音がコンガに似ているので、胴だけ作って皮張りは太鼓屋に持っていき「桶胴」の皮張りを頼んだのです。ところが後日取りにいくと、太鼓屋の親父さん曰く、「桶胴」の皮を張ったが音が出ないのでふつうの太鼓の牛の皮を張っておいたとのこと。私の考えでは、あの低い音程が欲しかったのに、太鼓屋はポンポン鳴らなければいけないと思ったのでしょう。後日、進駐軍の仕事に出かけたおり、キューバ製のコンガを見て、私たちが考えた構造、大きさ、ほとんどおなじであったことは、コンカ独特の音程、音色を作るにはこれしかなかったと、嬉しく思いました」

 ふたたび ボンゴ。
 いくら何でもデンデン太鼓ではどうしようもないし、高橋氏はしばらくしてこの珍品を持ち帰ってしまったので、本格的にボンゴ作りにとりかかることにした。このエピソードには “マクラ” がある。氏の学生時代、溜池の「フロリダ・ダンスホール」に見学にいったときに、キューバの楽団を聞いたというのである。おそらく昭和6、7年頃であろう。ふつうはタンゴ楽団がはいる中二階のまるい小さなステージに、トランペット、ギター、打楽器の三人編成のバンドが出演し、奇妙な音楽をやっていた。
 当時は何だかわからなかったが、ボンゴ作りにかかったときにふとその光景を思い出した。あれがボンゴだろう、というわけである。そこで昔から懇意にしていた木下孝一という楽器製作者にメモをわたし、これはみごとに成功した。後日談になるが、昭和43年、氏がハバナ文化会議出席のために日本の音楽家としてはじめてキューバを訪れたとき、楽器の工場を見学にいった。その片隅にギターを作る老人がいて、ショボショボと眼をあげると「オマエサン、溜池のフロリダを知ってるかい?」とたずねた。「オレは昔、あそこに出ていたことがある」というのである。これが、氏のボンゴのイメージを沸きたたせた三人組キューバ楽団の一人であった。老人は当時おぼえた日本の歌をうたってくれたが、それは「島の娘」(勝太郎の、ハァー、島でェ育てェばァーーだナ)だったそうである。

 ついでにカバサ。
 ヤシの実マラカスもなかなかだったが、やはり本物のマラカスが欲しいので、友人のつてでアメリカにマラカスを注文した。あまり期待しなかったのに現物が到着し、いさんで梱包を解いてみると、数珠玉をつけた大きなマラカスで、どうも様子がちがう。しかしまァ、これが本物なんだろうとステージで使うことにした。当時、目黒の雅叙園は進駐軍に接収され、コール・コピアというクラブがあったが、そこでマラカスをふっているとアメリカ人の将校がきて、奏法がちがうという。これがカバサだったのである。その将校にはじめてカベサの奏法をならった。
 その後、カバサは誰でもやる打楽器になったが、将校に教わった奏法はいまだに日本でやる人がいないという。
 氏は、眼の前で実演してくださった。
 ふつうの奏法だと、ジャキジャキとこもったリズムになるが、将校ゆずりの奏法はジャキン・ジャキンとハネルように賑やかである。おもにカーニバルのときに使われる特別の奏法だそうである。
「これはいまだに日本でやれる人がいませんよ。もっとも、賑やかすぎてボサノバには合いませんからネ」
 そういう。

 さいごにティンバル。
 これははじめからお手上げで、スネアを代用していた。昭和28年、戦後来日楽家第二号で、一号のジーン・クルーパ・トリオにつづいてザビア・クガート楽団が来日したが、このときはじめてティンバルの本物を眼にすることができた。氏はクガートに頼んでティンバルの寸法を計らせてもらい、大阪十字屋楽器店に依頼してコピーをつくることにした。
 まだまだある。クラベスは拍子木のように簡単に思えるが、あの音と音程をだすために100本以上試作した。二本の棒がちがう音程をだすことがどうしてもできなくて、結局、長さのちがう長短二本の棒になってしまった。ギロはヒョータンで作るけれど、日本のヒョータンはごぞんじのように二つ玉である。あちら製のノッペリ・ヒョロリとしたヒョータンはないので、どうしても山あり谷ありのギロができてしまった。
 デンデン太鼓とヤシの実マラカスで演奏していた氏のバンドに、ようやくラテン打楽器がそろうことになったのは、氏が「東京キューバン・ボーイズ」を結成して三年目のことであった。
 昭和24年9月3日「東京キューバン・ボーイズ」結成。

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メンバーは、写真の他、歌手の竹平光子を加えた12名だった。

(中南米音楽1982年4月号掲載)

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