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【追悼】[2019.11]濃密なサンバ時代を生きた95歳の長老 ネルソン・サルジェント インタビュー

文●佐藤由美 text by YUMI SATO

 ネルソン・サルジェント(Nelson Sargento|1924年7月25日 - 2021年5月27日)が5月27日に亡くなりました。新型コロナウィルス感染症のために、5月21日(金)より入院していました。96才でした。合掌。

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 ルーツ・サンバの真髄を知る最後の証人、ネルソン・サルジェント。90、92、94年以来、四半世紀ぶりの来日と聞いて胸躍らぬはずがない。創設37年、長年マンゲイラとの交流を培い、〝ヨコハマンゲイラ〟を標榜するエスコーラ・ヂ・サンバ・サウーヂへ届いた提案から、この度の来日が実現したという。

 本国で生誕をライヴで祝い、つい先頃メガイベント「ロック・イン・リオ」のステージも務めた驚きの長老とはいえ95歳、車椅子の長旅。だが周囲の懸念を払いのけ、飄々とした味わいのままに意気軒昂。浅草サンバ・カーニバルでマンゲイラ名誉会長の威光を示し、サウーヂの御所車仕様山車に鎮座して熱い歓声を一身に浴びた。思わず手を合わせて拝む者あれば、感涙にむせぶ者あり。浅草サンバ史上初の重鎮サンビスタ参加の快挙となった。

 1週間後、横浜にぎわい座地下、のげシャーレで行われた9月7日夜、8日昼の2公演は、公表されるや即日完売。優れた構成、サウーヂによる愛情深い手作りサンバ空間の演出が、舞台と客席を極上の感興で包み込む。かつての我々は主役サンビスタを盛り立てたいあまり、よく「ブラジルの観衆ごと日本に連れて来たい」などと口にしたものだが、もはやそんな必要はない。出演陣、全スタッフ、観客のサンバ愛と成熟度がとにかく素晴らしい!

 グルーポ・カデンシアの演奏力と編曲の妙にほだされ、初日のネルソンは曲が進むごとに若返ってゆき、今にも立ち上がって踊り出しそう。つられて70歳の森本タケルも、50代の輝きと歌声を取り戻していた。ほぼコーラスと通訳に徹するMAKOの存在も有効だし、主役入場時の「マンゲイラ讃歌」、最終盤「プリマヴェーラ」「サンバは死なず」の客席の大合唱に至っては、記憶に残る名場面と断言しておく。当然2日目は、のっけからトークに歌声にエネルギーが漲っていた主役の姿に、サンバを共に歌う歓喜パワーをあらためて痛感した次第。まさしく至福の余韻だった。


 急遽9月2日、逗留先にネルソン翁を訪ね、本誌初のインタビューに臨んだ。普段の喋りも韻を踏みジョークを交え、話がすっ飛ぶものの、さすが放埓にして濃密なサンバ時代を生き抜いたお方。長老の末っ子ホナウドとその嫁御リーヴェアが、助け船を出してくれた。

 ネルソン軍曹は、マンゲイラ創立の4年前に遡る1924年7月25日生まれ。少年期までをサルゲイロで暮らし、マンゲイラの丘へ転居したのは12歳の頃。地域の特性に加え、母親の再婚相手、継父にあたるアルフレド・ロウレンソの影響が大きかったようだ。

「継父はアルフレド・ポルトゲスと呼ばれたポルトガル出身者で、ファドのポルトガルギター弾きだった。12歳から20歳までエスコーラに通い、かの時代のサンバを歌っていたもんだ。曲を作り始めたのは48年。マンゲイラ所属コンポーザーとして、継父に見守られながらサンバ・エンヘード(※パレード用サンバ)を作った。仲間のジャメラゥンとも曲を作ったな。(※代表作「プリマヴェーラ」は、継父とジャメラゥンとの共作で、55年発表)。ヴィオラゥンは、カルトーラとルイス・ヂアスに教わった。あくまで実践的な奏法で、50年代にでも戻らないと通用しないような弾き方だ。奏法はずいぶん発展してきたからね。

 これまでに何曲作ったかだって? 100曲を越えて以降、もう数えていない。たまに、この曲を作ったのを憶えてる? と言われ、あ、私の曲かと気づかされるくらいだよ。60年代だったか、『ホーザ・ヂ・オウロ』という演劇作品の仕事をした時から(※65年)、音楽業で収入を得るようになった。音楽家としても広く知られた。それまでの生業は、造形美術と工事現場での塗装。自営なので毎日働かずに済んだ。必要な時に仕事をし、仕事せずに暮らせる時はしなかったよ。1年のうち6ヵ月働き、残り6ヵ月は仕事せずに暮らすという男もいたが、私もなんとなくそんなふうに生きていた。貯金などせず、必要な時だけ働いた。

 マンゲイラには年長の、30~50年代の偉大なコンポーザーが集まっていた。私は自ら彼らに近づき、その輪に飛び込んだんだ。コミュニティの皆が、カルト―ラのことを(敬意をもって)〝セニョール〟とか〝セウ・カルトーラ〟と呼んでいた。私もいつか皆からそんなふうに呼ばれるため、サンバを作って行くぞと心に決めたんだ。まぁ子供っぽい夢というか、目標だな。だが、彼らには多くを教えてもらったが、私は少ししか学びきれなかったよ。

 一番親しかったのはカルトーラ、ジェラルド・ペレイラ、ルイス・ヂアス、継父アルフレドだ。ネルソン・カヴァキーニョはボヘミアンで、家を出たら翌年まで帰って来ないような人物だったね。軍警官の彼は、親父も軍曹だった。ネルソンは騎馬巡回しながらマンゲイラに来て、その辺に馬を繋いだままサンバを歌いにモーホへ消えてしまう。だから彼が馬のことを思い出した頃には、もう馬は勝手に逃げ帰って元の場所にはいない始末。そうやって行く先々で馬を失くしてくるんで、ついに兵営の職を失ったわけさ。偉大なジェラルド・ペレイラは、よく継父の家に集う仲間だった。サンバのホーダ(輪)に加わって知り合えた。

 50~60年代には、そりゃ多少の偏見はあったが、サンバはずっと彼らによって歌い継がれてきたもんだ。「サンバは(苦しめど)死なず」は、プロテストソングのつもりで作ったんだよ。当時(※78年作)社会がサンバを侵略し始め、サンビスタたちは苦悩し一部が離れて行った歴史がある。(※末息子の嫁リーヴェアの補足によると、リオ南部の中産階級が良質で安価な娯楽を求めてエスコーラの練習場に押し寄せ、カーニバルをも変容させてしまった侵略を指す)私のサンバによる警告が、果たして機能したか否かは解らない。」

 ネルソン翁は目下、サンバ歌詞に関する書籍を鋭意執筆中という。何たるエネルギー!

「すべてのサンバに素晴らしいフレーズが隠されている。人はメロディーに気を取られ、サンバがもつメッセージに注意を払えていない。その重要性を強調するための本だ。最近パラナー大学で講義を頼まれたが、どうやってサンバを作るのかと尋ねられた。サンバなんて学校で習うもんじゃないが、例えば〝barracão caindo〟(あばら家が倒れかけている)という二語から、まずストーリーを描くための言葉を選んで行く。ワードを起点に着手するのが、ネルソン流なんだ。こういうことが得意な若い世代を含む仲間が、周りにいるんだよ。

 よもや日本へ戻って来られるとは夢にも思わなかったが、サウーヂに招かれてこうしてやって来るとは、なんたる進歩! これからも生きている限り、毎年カーニバルに来る。」

(月刊ラティーナ 2019年11月号掲載)

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