見出し画像

[2023.10]この夏13年ぶりに来日したLos Van Van 〜リーダー サムエル・フォルメル インタビュー

インタビュー・文●清野史郎

 サムエルが「ロス・バンバン」入りして初めてのライブを見たのが92年、バルセロナに住んでいたころ。マジートも加入しての新生バンバンが発進した時期と重なる。「サンドゥンゲラ」や「ティティ・マニア」のヒットが続いた80年代後半のグイグイとくるマッチョな音と明らかに異なる都会的に洗練されたサウンドに変化していた。ライブ後に「ロス・バンバン」が泊まっていたホテルに直行し、フォルメル(父)の部屋で一晩中飲み明かした、その変化について尋ねたら、「新世代、新世代(nueva generación)」 を連呼していたのを覚えている。ペドリート(往年のメインボーカル)も年を取って自分からファンを追っかける姿は必死だ、今じゃマジートたちは待っているだけでファンがやってくると笑って見せた、「この世代は優秀」と付け加えた。

 バルセロナオリンピックの好景気にスペインが沸いていた頃。プエルト・リコ、ドミニカ、キューバの有名バンドがスペインの各地で盛んに行われていたサマーフェスティバルを賑わせていた。ラテン・アメリカからの出稼ぎ移民の増加が後押しとなっていたこともあってか、スペインではトロピカルミュージックの一大ブームが起きていた。バルセロナ郊外のオーケストラ・デ・ラ・ルスやチェオ・フェリシアーノ、ピート・エル・コンデが参加してのファーニア・オール・スターを観に行ったのを覚えている。

 当時のキューバはソ連の崩壊直後、経済の下支えを失って経済がどん底にあった。この機を逃すまいと米がキューバ政府転覆の意図を露わにして圧力をかけるなかで、国内産業が停止したキューバは、それまで限定的だった西側諸国の観光客誘致にかじを切った。スペインからのホテル投資が始まり、スペイン人観光客がキューバに殺到していた。その当時のキューバの国内事情を話題にしながら、キューバのトップに君臨してきたバンドでありながら、キューバ国内に留まって活動している苦労にも話が及んだ。

「ロス・バンバン」は20年以上も活動してきたが、サルサ界のミュージシャンが評価するも公演出来るのがせいぜい2,000人程度のキャパの会場、それに引きかえ、最近流行っているファン・ルイス・ゲーラ(ドミニカ)は1、2万人のキャパの闘牛場でライブが出来ている。大手レコード会社は米のキューバ封鎖で契約してくれず、キューバ音楽を海外で広める難しさや海外で録音される「ロス・バンバン」の楽曲の印税をわざわざメキシコまで行って、引き出さなければならない等苦労話を切々と語ってくれた。

 久々にサムエルと会った今回、父フォルメルの思い出を振り返りながらのインタビューとなった。

 ◆

── 「ロス・バンバン」に加入してから31年が経ち、おおよそ10年ごとにバンドに大きな変化が起きたと思うが、どのように乗り越えてきたか?

サムエル(以下 S) 十分に知っている音楽だったとはいえ、参加して最初の10年は「ロス・バンバン」の音楽を実践から理解する期間だったと思う。生まれながらにして既に「ロス・バンバン」の一員だった気がしている。家で父が作曲していた姿を見ていたし、新譜が出る度にメンバー全員が家に集まって聴いていたよ。あの頃レコードプレーヤがあったのがうちだったから、一日中同じレコードを50回ぐらい聴かされていたよ。そう思うと「ロス・バンバン」が血管に注入され続けていたんだろうね。
 5, 6歳ごろからリハに連れていかれるようになったが、即チャンギートにベッタリになってしまった。そう、パーカションの虜になったんだ。凄腕だし、彼の創造力にハマった。だけどチャンギートの本当の凄さを理解したのが音楽学校を卒業してからだね、音楽的に理解するようになってからだ。それからだね、チャンギートを完全コピーするようになったんだ。 

 プロとしてスタートはイサック・デルガードのバンド。所属していた3年間は音楽学校の学びとは全然違う、いわゆる路上の学校の学びだった。Escuela de la Calle。今思えばその経験がなかったら、ロス・バンバンでもっと苦労したんだろうな。メジャーリーグに入る前のマイナーリーグでの特訓みたいなもの、イサックバンドには同級生はいたし、イサックもバンドも素晴らしくレベルが高かった。

 そしてチャンギートの脱退。彼なしではロス・バンバンはあり得ないと誰もが思っていた。当時僕はカンクン(メキシコ)でライブツアー中、突然呼び戻された。92年のことだ。チャンギートの代わりを探してオーディンションを繰り返していた父にプピー(CESAR PEDROSO)が「これ以上は無駄だ、我々の音楽を理解するサムエルに決めるしかない」と言ったことで白羽の矢が立った。父はイサックに直談判して、ヒラルド・ピロートの加入を手助けする代わりに脱退を認めてもらえた。

 不安と期待が入り乱れる中での加入だった。最初の10年はとにかくチャンギートのパートを徹底して真似たよ。「自分のスタイルを作る」そんな野心が芽生えるはずもなかった。
 やっと自分のスタイルを確立していこうと思う様になったのがその後の10年だね。アルバム3, 4枚にも参加して自信も出てきていたし、「サムエル・スタイル」のファンだと言う人も現れ、自分を磨くことが日課となった。日々研究と練習の繰り返しだった。チャンギート・スタイルとは異なる、サムエル・スタイルが認められるようになったと感じていた。2010年頃からアルバム制作、アレンジやディレクターとしても手伝うようになった。演奏していただけのころとは責任の度合いが全く違った。人生が変わったと感じたね。コンサートでも徐々に指揮を執るようになり、異なるテンポの曲、アナクルーザ、一拍目からスタートする曲、それを全部覚えて、やっと仕切れるようになった頃の父の死。それからは音楽面だけでなく、バンマスとして「ロス・バンバン」の総指揮を執ることになった。そうなってからは10年が経った。
 この30年で13, 4曲を作曲してきたし、父の死後はアレンジとプロデュースにも関わって、それが今の「ロス・バンバン」だと思う。

LOS VAN VAN 東京公演でのサムエル(2023年8月31日 Zepp Shinjuku)
Photo by Kimiko Yatsuda

──  キューバで人気バンドとして君臨してきた「ロス・バンバン」だったが、世界的に知られるようになったのは90年代以降、どのように拡がり、何があったのか?

S 94年前後、ヨーロッパでキューバ音楽ブームが起きていた。イタリア、スペインから始まり、その後にフランス、北欧にも徐々に拡がった。ヨーロッパに移住したキューバ人たちが切掛けになったのだと思う。生活のためにダンス教室を始めた移民キューバ人がレッスンに使った音楽がダンスファンから拡がり始めた。その甲斐があってか、キューバで踊ろうと言うヨーロッパ観光客が増加した。あの頃のパラシオ・デ・ラ・サルサ(ハバナで当時流行したライブハウス)はヨーロッパ人観光客で賑わっていたよ。
 その中でもとりわけイタリアでのキューバ音楽人気が高かった。10年間、ミラノ、ベネチア、トリノで立て続けにキューバンサルサフェスティバルが行われていた。ヨーロッパでのブームが火付け役となって話題が起こり米国、プエルト・リコでの初公演に繋がった。

 忘れられないのがプエルト・リコでの初ライブ。「ロス・バンバン」の音楽を聴いたことがあっても、ライブは観たことがない、予想を超えるファンがプエルト・リコのファーストライブに集まってくれた。ムニョス・マリーン公園にある野外劇場だった。これまでのバンバンの最長ライブとなった。3時間50分続いた。ライブで父がメンバー全員に言ったことを今でも思い出す、「踏ん張れ(ズボンのベルトを締め直せ)、人生の思い出となる足跡をこの地に残すんだ」。当初2公演の予定だったが、結局10公演を行った。ヒルベルト・サンタ・ローサ、オルガ・タニョン、グラン・コンボ等、プエルト・リコの有名アーティスト等から共演の申し出が殺到したよ。ヒルベルト・サンタ・ローサとはクリスマスに、グラン・コンボとは大晦日に共演したよ。ミュージシャンが我々に会いたがり、彼らの間で「バンバンマニアック」という言葉が流行ったほどだ。行くことを絶たれていた第2の祖国に行けた!大きな喜びだった。

──  プエルト・リコ人は「ロス・バンバン」の音楽をどのように踊ったの?

S 男女ペアーがくっついたままのキューバ伝統のカシーノスタイルで踊る人が多かった。今のキューバ音楽はある面では進化し、踊りも進化している。手を離し、女性のフリーなムーブメントが加わったのが今のキューバだが、見る見る内にプエルト・リコの観客の踊りが変化していく様子が見られた。一躍買ったのがボーカルのペドロとマジートのステージでの踊りだと思う。

──  他のラテン・アメリカはどうだったのか?

S グラーミ受賞後、中南米のプロモータからのオファーが増えたよ。初のアルゼンチンツアーでは2週間近くTrastienda 劇場で毎日二公演を行ったし、ロサリオでは若い女性中心のバンバンファンが大勢待っていてくれた。移住したキューバ人ダンサーが、我々の音楽を拡散してくれていたらしい。
 (ブエノスアイレスの)ルナパーク劇場で演奏することもできた。何せルナパークの舞台に立つことが出来たキューバ人はシルビオ・ロドリゲスとパブロ・ミラネスだけだったから嬉しかった。2回目の公演では父は既に他界していたが、プエルト・リコの最長ライブに次ぐ3時間20分演奏した。
 ウルグアイやチリでも数度コンサートをやっているが、もともと音楽志向が異なる難しい市場だと思っていたが、チリのカオポリカン劇場はいつも満員だ。その他の国だとコロンビアとペルー。もともとは音楽的志向が近いからやり易かった。コロンビアでは毎年ライブを行っている、今回の来日直前には、リマのカジャオ・フェスティバルで演奏してきた。フライトの遅延でリマに到着したのが夜中の1:30、ライブがスタートしたのが朝の4:30、終わったのが6:00だったが、ファンが帰ることなく最後までいてくれた。 

──  「ロス・バンバン」の音楽はティンバ、ソンゴ? そもそもティンバとソンゴは何?

S サルサに洗練されたアレンジを加えたのがティンバだ。ハーモニーとリズムを厚くしてよりアグレシブな音楽。一方ソンゴは、ソンのコンガ(楽器)から進化したリズムパターン、ティンバレスのリフも複雑になりドラムも加わった。サルサに比べリズムパターンが複雑になっている。
 そして我々のやっている音楽は何かと言えば、それはティンバだ。父がいつも言っていたが、サルサはソフトに曲全体がロマンティックに仕上がっているが、ティンバはそれよりヘヴィーな音楽だ。
 大まかに言えば「ロス・バンバン」と「イラケレ」のサウンドがミックスしてNG ラ・バンダ(NG La Banda)が生まれ、それがティンバの基になっているが最初からティンバというジャンルがカテゴライズされていたわけではない。
 ミュージシャン仲間で、ティンバがある「カッコいい、ノリがいい音やサウンド」と使っていた言葉が何時しか、俺たちの音楽「ティンバ」だと言うようになって定着した。
「ロス・バンバン」はソンゴというコンガのリズムパターンを演奏しているが、「イラケレ」、「ハバナ・デ・プリメラ」、「オプス13」、「マオリート・シモネ」のバンドも独自にコンガとリズムパターンをソンから進化させている。リズムは前ノリだし、裏音を加え、コンガの叩き方の組み合わせも更に複雑になっている。

 話は戻るが、果たして「ティンバ」はジャンルなのかという事だ、僕は一つの演奏スタイルだと思う。たしかに伝統的なソンからの発展系だが、もはや「ソン」だとは言えない。広義で言えばカリブダンスと言うジャンルの中の一つの演奏スタイルだと思う。
 NG ラ・バンダで見られるようにピアノのトゥンバオが進化し、コンガが2本から3本になり、ティンバレスとドラムが加わったことでソンが行きついた先がティンバだと思う。ソンではあまり使うことが無かったイレベンスやサーティンスコードを多用するようになった。 

──  80年代「ロス・バンバン」にトロンボーンが加わりサウンドが変化した切っ掛けは?

S トロンボーンを取り入れたのは82年。それまではバイオリン3本、チェロ、フルートの伴奏が唄を引き立ていたが、80年前後からフォンセクションを取り入れた、よりアグレシブなサウンドが流行っていた時代。父がヒントにしたのはルーベン・ブラーデスとウイリー・コロンのトロンボーンセクション。フルートとバイオリンの高音では音の厚みには限界があったからトロンボーンを入れて補うことにした。特にコーラスとの掛け合いのモントゥーノやマンボの部分にノリのあるメロディアスなトロンボーンのフレーズを加え、高揚感を狙った。
「イノベーション、イノベーション」と父はいつも言っていた通りになった。
 80年代末に日本に来た帰りに、ドラムパッドや電気フルートを買ってきたが帰ってから直ぐに使い始めた。

──  今後の「ロス・バンバン」のサウンドはどこへ向かうのか?

S 代々受け継がれてきた「ロス・バンバン」の信念は「リスクを恐れずに常に変化していく」。それに纏わるエピソードが幾つかある。
「Deja la Boberia デハ・ラ・ボーべリア(馬鹿はやめようよ)」という80年代の曲、シンセの電気的効果音のリズムでスタート、続いてドラムパッドがビートを刻む、唄が「ヨーロッパで官能的な踊りが流行っている~」で始まる。この曲を初めてサロン・ロサード・デ・ラ・トロピカル(野外コンサート会場 庶民の音楽の聖地)で演奏した時の観客のリアクションは散々たるものだった。観客は踊れず立ち竦んでいて、その光景を見たメンバーが絶句して顔を見合わせるしかなかった。心配した数名のメンバーが後日家に来て、あの曲の演奏をやめるよう父を説得しに来たが、答えは「待とう、必ずヒットするから」だった。仕方なくメンバーは、フォルメルの言うことだからと受け入れたが、父の言葉通り、ヨーロッパツアーから帰国するとキューバ中で大ヒットになっていた。サロン・ロサードでは観客が総立ちで踊ってくれていたんだ。
 今はネットがあるから音楽が拡がるのが早いが、当時は新曲を知ってもらうのにはラジオで流してもらうしかなかった。ライブで初披露する曲は踊る側に拒否されるリスクをはらんでいるが、それでも毎度のことながら父には自信があった。
 曲「El Buey Cansao エル・ブエイ・カンサオ(疲れた雄牛)」の時もそうだった。83年は「ロス・バンバン」にとって最悪の年だった。イラケレの「Mami dame caramelo マミ・ダメ・カラメーロ(母ちゃんキャンディを頂戴)」、ソン14「Bayamo en Coche バヤモ・エン・コチェ(バヤモを馬車で行く)」が流行り、イラケレ、ソン14がヒットを連発していた。そのころにリリースしたアルバムは、トロンボーンが加わり、アレンジ、オーケストレーション、音楽的には申し分のない出来だったが、売れなかった。「何かをしないと」とプピ(セサル・ペドローソ)が父に危機感を訴えていたし、メンバーのトスコ(ホセ・ルイス・コルテス NG ラ・バンダのリーダー、フルート奏者)がロス・バンバンを脱退してイラケレに参加していた。トスコは僕にとって叔父の様な存在。徴兵でサンタクララに住んでいた彼を父がハバナに呼び寄せ、家に居候していた時期もあったから彼の脱退はショックだった。理由を尋ねると「ロス・バンバンの時代が終わったよ、今は「イラケレ」の時代、明日になれば「オプス13」の時代がやって来る」。その言葉に敗北感に感じて父に伝えたら、心配するなとギターを取り出して「El Buey Cansao エル・ブエイ・カンサオ」のベースラインのスローテンポのフレーズを弾き始めたんだ。僕は理解できなかった。イラケレ、ソン14の人気バンドの前ノリでアップテンポの曲が全盛時代なのに、何故こんなの後ノリのスローテンポなんだと思ったね。リハでも、さすがにメンバーは父の面前では口はしなかったが、「とうとうロス・バンバンの終焉」だと言い合っていたよ。
 だがその後はビックリ仰天、「El Buey Cansao エル・ブエイ・カンサオ」が大ヒット。キューバラジオで最も流された楽曲の記録となったし、今でも「ロス・バンバン」の楽曲収益のトップの曲だ。
 そう言えば「イラケレ」も「オプス13」はもう活動していないね。

 父は僕にとって常に先生、学校だったよ。世のなかで何か起きているのか。人は今、何を聴いているのか、他バンドやミュージシャンがどんなことをやっているかを日々気に掛けるよう、その大切さを唱えていた。踊ってもらうこと、楽しんでもらうことに加え、観客を引きつける斬新さを常に提供する必要がある、それが口癖だった。今でもキューバ音楽の曲構成にはイントロ、平唄、ブリッジ、コーラスのパターンがあるが、そこからも脱しなければならないと思っている。「いつ聞いても同じだよ」と思われないようにしなければならない。

 新譜「ロス・バンバン・モード」の編集が終わったところだ。モードという言葉はデジタル時代で使われている表現だ。人をバンバン・モードにするための曲作りを目指して制作したアルバムになっている。 

──  コロナ禍の3年はどんな活動をしていた?

S コロナ前までは、海外含め少なくとも週1回のコンサートをこなしていたから生活が一変した。音楽をやることで生活が成り立っているわけだから、全てが止まった当初6か月はあらゆる面で厳しかった。芸術・音楽に携わる者には特に厳しかったのは周知のとおりだが、徐々にオンライン活動が出来る環境が整い、救われた、あの状況の中でも我々は恵まれていたと思う。オンラインライブやポスト動画を発信したりして、バンドの結束を保持するためにリハやミキシングをして、ロス・バンバンのスイングを消さないようにと観客なしの演奏は続けていた。その状況の中で当たり前かもしれないが、観客の重要性に気づかされた。観客の前で演奏し、踊る姿を見て、観客と一体となることが我々のモチベーションであり、我々の存在意義は観客と共に、ということを再認識させられたよ。

──  13年ぶりの日本公演だが、どんな曲を演奏するのか?レパートリーは?

S 日本人が知る、70年代からの曲も含めヒット曲を中心に演奏するよ、実は演奏する国によって毎回レパートリーを変えている。キューバでは観客に言われればどんな曲でも演奏できる準備をするが、他の国ではコンサート全体のバランスを考えてレパートリーを決めている。 

(インタビュー:2023年8月31日 宿泊先ホテルにて)

サムエル・フォルメルと筆者(撮影:編集部)


LOS VAN VAN 東京公演(2023年8月31日 Zepp Shinjuku)Photo by Kimiko Yatsuda
LOS VAN VAN 東京公演(2023年8月31日 Zepp Shinjuku)Photo by Kimiko Yatsuda

(ラティーナ2023年10月)


ここから先は

0字

このマガジンを購読すると、世界の音楽情報誌「ラティーナ」が新たに発信する特集記事や連載記事に全てアクセスできます。「ラティーナ」の過去のアーカイブにもアクセス可能です。現在、2017年から2020年までの3.5年分のアーカイブのアップが完了しています。

「みんな違って、みんないい!」広い世界の多様な音楽を紹介してきた世界の音楽情報誌「ラティーナ」がweb版に生まれ変わります。 あなたの生活…