[2021.07]【TOKIKOの 地球曼荼羅 ⑫[最終回]】世界中に故郷を持つ国 ─ アメリカ
文●加藤登紀子
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❶ピート・シーガーの「花はどこへ行った」
この連載の1回目に、何故か私にとって抜き差しならない歌の多くがロシアにゆかりのある歌だというテーマで、「悲しき天使」「花はどこへ行った」のことを書きました。
どちらも英語で歌われて68年ごろ、世界的なヒットソングになった歌です。
「悲しき天使」はジョン・ラスキン作詞作曲とされてきましたが、ロシア革命前後に作られ、亡命ロシア人の間で歌われてきた歌だったこと。
「花はどこへ行った」は、ロシアの文豪ショーロホフの「静かなドン」の中に挿入されていたコサックの子守唄がヒントになってできた歌だったと。
その作詞作曲者、ピート・シーガーがこう言っています。
「おそらくアメリカ人は新しい伝統を手に入れるのが上手なのかもしれない。もともと私たちは生まれた土地を追われた根無し草であり、深いルーツを持っていないのだから。その代わりに、新しいルーツを手っ取り早く定着させる能力を多岐にわたって発展させてきたのである。」(「虹の民におくる歌」ピート・シーガー著より)
ピート・シーガーは1919年5月3日ニューヨークに生まれ、残念ながら2014年1月17日に94歳で亡くなっていますが、私はどうしてもお会いしたくて2012年、ニューヨークから3時間ほどの、ウッドストックからそう遠くない、ハドソン川上流の彼の街を訪ねたのでした。
それというのも、そこはインディアンポイントという原子力発電所がある街で、その環境監視をしているグループの人たちがピート・シーガーと親しかったからです。
その原発がマンハッタンからたった40マイル(64.3km)という近さだということで、2011年の福島第1原発の事故の後、その危険性を現実のものとして感じ始めた人たちと福島の被災者との交流も始まっていました。
残念ながらその時、ピート・シーガーの奥さまが危篤状態で彼はいっときも離れられない、ということで、お目にかかることは出来ませんでしたが、その時初めて、奥様という方が、実は日系人2世のトシ・オオタさんという方だと知りました。
写真:インディアンポイントで撮影
彼の著書「虹の民におくる歌」に、その結婚のことが書かれています。「太平洋戦線に出かける前の1943年、私に重要な出来事があった。21歳のトシ・アーリン・オオタと結婚した。 〜〜 3年半の間、毎日私たちは手紙のやり取りをした。」と。
彼女の母は奴隷所有者の富豪の家の出身でしたが、その人種差別主義から決別しグリニッジ・ヴィレッジに移り住み、そこで日本から政治的亡命をしていた日本人と出会い、大恋愛のうちに結婚し、その娘がトシさん、ということです。
そしてトシさんとピートが出会い、結婚。戦争時代、戦後の反戦運動、そしてハドソン川の水を守る運動を共に生き抜いた大切なパートナーとなりました。
ピート・シーガーの最も有名な歌のひとつが「We Shall Overcome」。1946年に創刊した「ピープルズ・ソング」という冊子に1947年に発表されたそうです。そこから歌い始めた歌が、世界中を歩き、歌詞が加えられていったと彼は書いています。
もともとフォークソングは、作者不詳の農民の歌の意味であり、炭鉱夫や黒人の囚人の歌などを収集したものだったのが、いつの間にか、ステージに立ってアコースティックギターを弾きながら、出来立てほやほやの歌をうたう白人の音楽になった、と彼は抗議しています。
この本の中には彼が出会った数多くの人との物語が綴られていますが、なぜかボブ・ディランの名前が登場しないのは、もしかしたら、そういうスター的な存在に対して冷ややかな思いを持っていたのかもしれない、と思います。
最後まで人々の中で、人々と歌うことにこだわった行動するアーティストであり続けたのです。
「花はどこへいった」の生まれた時のことをこう書いています。
「1955年10月、私は、オバーリン・カレッジの生徒たちに歌うためオハイオ行きの飛行機に乗っていた。半ば居眠りをしながら。ポケットの中に3行のコピーがあるのを見つけた。1年前に翻訳で読んだソビエトの小説、ミハイル・ショーロホフの『静かなドン』の中のものだった……。何かが私の潜在意識をカチッと音を立てて動かした。」
そして2年ほど前に考えた「Long time passing」というフレーズと繋がり、20分後に仕上がったと。
初めは今歌われているものより短いものだったそうです。この歌を多分その日、彼はオバーリン・カレッジで歌ったでしょう。その後ピートが歌っていなかった間にオバーリン・カレッジ・フォーク・クラブのリーダー、ジョー・ヒッカーソンが歌い、それをP・P・M(ピーター・ポール・アンド、マリー)がピックアップして歌い出し、1年後に、キングストン・トリオがレコードにしたのです。そこで初めて、マネージャーが「この曲は2年前に作った歌だけど、著作権を取ってなかった」ことに気がつき、キングスオン・トリオ側にも知らせ、彼の歌だとみんなに知られるようになったといいます。歌が勝手に旅をして、少しずつ歌詞が増え、変化していく……。ピートはそれが大好きだったようです。
歌が出来立てほやほやじゃなく、人々の中で生きて、広がって、育っていく。その生命力と運命がその歌の価値を高めていくのだと思います。
もちろん、その歴史の中には、マレーネ・デートリヒとこの歌の出会いがあり、バート・バカラックと共に世界を歩いたコンサートで、この歌が、第二次大戦を背負ったマレーネの、戦後の世界への強いメッセージとなって聴衆を感動させたのです。
私は2018年のコンサートに、1968年から50年の歴史と、ロシアの歌をテーマに「花はどこへ行った」のタイトルをつけ、その前年に「静かなドン」の舞台となったロストフ・ナ・ドゥヌーを訪ね、この歌の長い物語に思いを馳せたのでした。
私の家族が経営していたロシア料理店でコックさんをしていた女性がコサックの頭目の娘だったという縁もあり、ロストフの旅は、胸深く染み渡るような旅になりました。
「花はどこへ行った」はそのままレコーディングもせずにきたのですが、今年やっと収録し、この秋に「花物語」という3枚組のCDベスト盤の一曲に納めます。
彼の素晴らしい言葉を最後に。
「I have drunk from wells l did not dig、been warmed by fires I did not build」
「私は水を飲んできた。自分で掘ってはいない井戸から。私は温められてきた。私が付けていない火で。」(ピート・シーガー)
❷ジョン・レノンとオノ・ヨーコ
奥さんが日本人、といえば、世界中の人がすぐに思い浮かべるジョン・レノン。
彼は1940年10月9日に生まれ、1980年12月8日に、ニューヨークで凶弾に倒れ、たった40歳で亡くなりました。
1956年結成されたバンド「クオーリーメン」が1960年に「ビートルズ」になり、1962年、1stシングル「ラブ・ミー・ドゥー」で世界のアイドルとなりました。
1966年6月29日の来日公演を私は武道館で見ています。私はもうデビューしていたので、まあ、言うなればライバルとしてみたわけです(笑)。特にファンではなかったけれど、実は前年の夏、1回目のシャンソンコンクールを受けた後で、人生が大きく動き出した興奮の中で、毎日聴いていたのを思い出します。
その後のビートルズ旋風については、ここで書くまでもありません。世界の音楽シーンを一色に染め、日本にたくさんのビートルズ少年たちを育て、多くのヒット曲を送り出しました。
その人気絶頂のジョンがオノ・ヨーコさんに出会ったのは、来日公演のあった1966年11月9日。たちまち恋に落ちたジョン。68年にヨーコさんが元夫と別れ、妻のシンシアが実家に帰る、という急展開。69年3月21日にはアムステルダムであの有名な「ベッド・イン」を世界に公開。そのベッドの中で「Give Peace a Chance」を発表します。
1970年ポールがビートルズを脱退。(翌年ビートルズ解散。)最後のシングル「レット・イット・ビー」の大ヒットの中で、12月ジョンは初めてのソロアルバム『ジョンの魂』を出し、アメリカへの移住を決めます。
けれど当時大統領だったニクソンからアメリカからの退去命令が出され、ニクソンが1974年、ウオーター・ゲイト事件で退任するまで、アメリカと戦わなければなりませんでした。
『イマジン』が発売されたのはそんな1971年9月9日。
1975年、やっと永住権を獲得したジョンにショーンが生まれます。ジョンは5年間、子育てに専念。ショーンが「パパがビートルズだ」と興奮したのをみて、1980年、音楽に復帰することを決意。ヨーコさんとのコラボレーションで『ダブル・ファンタジー』を発売したのが11月17日。亡くなったのはその3週間後でした。
ジョンとしての活動が始まった1970年からたった10年しかなかったのです。しかも5年間は主夫をしていた!
悔しいですね、本当に。
ジョンが亡くなったと知ったのは、「ほろ酔いコンサート」のステージでリハーサルをしていた時でした。みんなショックでしたね。私はまだジョンの曲を歌ったことがなかったので、急遽メンバーに「イマジン」を歌ってもらって、ジョンに捧げたのでした。
私は、翌年の夏、あろうことか、ヨーコさんに手紙を出したのです。
「日本とアメリカは軍事同盟を組んでいるのだから、日本とアメリカは繋がっています。平和のためにアメリカと戦ったジョンとヨーコさんに心から感激しています。ジョン亡き後も、ヨーコさん、頑張って下さい!」と。
そうしたら、奇跡が起こったのです。
ヨーコさんから電話があり、ニューヨークで会いましょうということになりました。
「世界中から手紙が山のように届いていて、とても読めないのに、あなたからの手紙を私は読んだの。これは奇跡ね、きっと。」とヨーコさん。
ロングアイランドの家をお尋ねしたとき、車から降りると、ジョンの歌が聞こえてきて、ヨーコさんが門のところまでプラプラと歩いてきて出迎えて下さったのです。
開口一番「あなた、あの、刑務所にいる人と結婚した歌手でしょ?」
もう何も言わなくても分かり合ってるような、打ち解けた出会いになりました。
「あなたのご主人は、壁を壊そうとしたのね。でも壁を壊すのは大変よ。人生を傷つけることになるわ。でも窓を開けることはできるんじゃない?私とジョンはそれをしてきたのよ。」
この、とっても大切な対話を、私は今も大事にしています。
この年の秋、私はヨーコさんがジョンに贈った「Goodbye Sadness」を日本語にしてレコーディングしました。
ジョンの歌を初めて歌ったのは、ヨーコさんの主催する「ジョン・レノン、スーパーライブ」に出演した時でした。
武道館のステージにギタリストの告井延隆と二人で出て、「Power to the People」と「Working Class Hero」を日本語にして歌ったのでした。 武道館でシングアウトになり、大きな声が響いたのは圧巻でした。
それ以来「Power to the People」とその後で歌い始めた「イマジン」は私の切り札になっています。
ジョンの曲は、どれもそのままのキーで歌える! 誰でもね。それが不思議。限りなくシンプルな歌詞の素晴らしさ、曲の分かりやすさ、それが永遠に残る歌の必須条件なのでしょう。
❸初めてのアメリカツアー
アメリカを初めて旅したのは1974年、この連載の2回目に書いた「中南米ひとり旅」の帰りにニューヨークに立ち寄った時でした。兄が赴任してニュージャージーに住んでいたので、仕事抜きで気楽に遊びに行ったのでしたが、それこそ寝る間も惜しむほどに、ライブハウス巡りの計画を立てた私に、「夜道を一人で歩くのは危ないし、ニュージャジーまで帰ってくるのは無理だ」と兄が私に会社のアメリカ人女性スタッフをつけてくれて、彼女のアパートに泊まらせてもらって、1週間のびのびといろんな人に会い、ライブハウスで歌わせてもらい、明け方まで遊び、ニューヨークを満喫したのでした。
当時、とにかくアメリカに来て、バイトをしたりしながら道を開こうとしている、画家やミュージシャンやライターを目指す若者がいっぱいいいて、みんな自信満々でした。
日本にいたんじゃ、何にも始まらないよ、と意気軒高。
私も結婚して子育てがはじまっていなければ、その気になったかもしれない、そんな雰囲気でした。なんの保証もないのに頑張ってる! そういう無鉄砲な若者があの頃はいた、ということですね。
その3年後に、ちょっとした仕事を頼まれて、再び訪問。その時はニュージャージーのスポーツセンターで、兄たちの手作りコンサート。留学中の日本人学生と韓国の学生で組んだアマチュアバンドが伴奏してくれることになり、ちょっと大変だったけど、面白いセッションではありました。
その滞在中に出会った写真家とニューヨークを歩き回り、彼に勧められてワシントンスクエアで、歌ったのでした。その時のことを1980年に出版した「止まらない汽車」に詳しく書いていますが、とにかくアメリカは面白い!
ヒッピーぽい人や路上生活者、薬物でもやっていそうな得体の知れない人まで、物騒な感じにたむろしている中に陣取るのはなかなか度胸のいることだったのですが、歌い始めると、むっくりと起き上がる人や、わざわざ目の前に来て聴いてくれる人など、すごい展開になったのです。
その時、ちょっとゴスペルっぽい歌を歌い出したら、ホームレスか、と思っていた黒人男性が、ピッタリと横に座り、素晴らしい声でアドリブで歌い出して、私もアドリブで答えながらの感動的なセッション!
何が起こるかわからない、スリルでいっぱい! それがあの頃のアメリカでした。
プログラムを組む悩みは、私の選んだ曲が、ロシアやフランスの歌、かと思えば韓国の歌や沖縄の歌と、アメリカに因むと言えば、「悲しき天使」「リリーマルレーン」ぐらい。
私がどんな歌手なのか、理解されるために、それでいいのか、というようなことでした。歌手としても、人としてもアイデンティティを問われると、やっぱり私は流れものなのだなあ、とつくづく思う私でした。
結局は、そのまま歌いたいものを気ままに選びながらのコンサートにしたのです。
ボストンのコンサートの後、ホールの横にラウンジがあり、観客の人たちとアフターパーティーがあったのでした。それで聴いた人たちの率直な気持ちを聞くことができました。その時ある紳士がこう言ったのです。
「今日の一曲目にあなたが歌った『リリーマルレーン』に泣きました。まさか日本の歌手が日本語で歌うなんて、思ってもいなかったので、戦争の頃のことを思い出して号泣してしまったんです。」
若い人はこんなことを言ってくれました。
「『悲しき天使』は、子供の頃母がいつも聞かせてくれた、これは僕の子守唄だった。今日聴けるなんてびっくり。思わず泣きそうでした。」
またある女性は、「ギターで歌った韓国の歌、あれは何か、すごい意味がありましたか?」とこの方は日本語で聞いてきました。「これは、何かあるな」と思った、という言い方に、本当にすごい直観力だと思いました。
「鳳仙花」は抗日の歌として歌われた戦争中の歌、それを私が歌う意味を彼女が受け止めてくれた、と思います。
私が日本人としては、ちょっと風変わりな多国籍なメニューで歌ったことは、かえって私の世界をまっすぐ伝えてくれていたのです。
それは本当に大きな発見でした。私が日本人だから、とか、そんなことは気にしなくていいんだ!と。
ここはひとりひとり自分の歴史を持って生きている。いろんなアイデンティティーがそこらじゅうにあって、自分を確かめながら、みんな自分を生きているんだ、と。
アメリカでコンサートをして、私がそのまま私でいいと言われたような気がして、それは、私には大きな収穫だったと思います。
❹カーネギーホール公演
初めてのアメリカツアーから帰って、間も無く一本の電話がありました。「来年の10月22日にカーネギー・ホールを押さえました。あなた歌って下さいますか?。」
ニューヨークで初めて私の歌を聞いてくれたアメリカ生まれの日系人、デダラー・ミドリさんという方からの電話でした。
ジャパニーズ・アメリカン・ソーシャルサービス・インク(JASSY|日系アメリカ人社会福祉協会)の会長で、カーネギーホールをJASSYのチャリティコンサートとして開催したい、という提案でした。
もちろん喜んでお引き受けします、と答えて、1988年のカーネギーホールのコンサートが決まりました。
夢に見ていたとしてもなかなか辿り着けないはずのカーネギーホールを、そんな形で開けるなんて、なんとありがたいことでしょうか!
1年後、JASSYを応援するボランティアの人たちが猛烈に頑張って、客席は満杯。日系企業の人たちもこぞって来て下さって、大成功に終わらせることが出来ました。
実を言えば、この時、昭和天皇陛下がご病気で、次々イベントが中止されていたのです。でもこの時の領事が私にこう言って下さったのです。
「コンサートを主催しているのが日系人とは言え、アメリカ人ですから、尊重しなくてはいけないと思います。」と。
日系企業の方々も領事の見解を尊重してくださり、この結果があったのです。
デダラー・ミドリさんはこの準備の一年間で日本語を覚え、87年には一言も話さなかった日本語を話せるようになって、私を迎えてくださいました。
なんと素晴らしい出逢い! その一部始終、心に刻みこまれています。
彼女の言った言葉に初めて知ったこと。
「東海岸の日系人は、ほとんどの人が西海岸から戦後逃げて来た人たちで、日系人のコミュニティも弱く、みんな孤独です。支えてくれる人も少なく、年老いています。暖かな思いをあげてください。」
カーネギーホール公演を経験してますます思ったのは、アメリカそのものが多国籍国家であり、そこに生きる人たちはアメリカの中でそれぞれのコミュニティを守っている! だから音楽の国なのだ、と。
2年後の1990年、25周年を迎えた私は、改めてカーネギーホール公演を企画、自分の事務所で主催するという冒険に挑戦。
25年をたどるヒットソングメドレーを含む全28曲。私をまっすぐ伝えるための欲張りな選曲でした。
のびのびと嬉しそうに歌っている私。
2枚組のライブアルバムを残すことが出来ました。
❺ロサンゼルスでレコーディング
写真左から、小林裕人、加藤登紀子、パトリック・セイモア
それからまた10年近くが過ぎて、1999年、初めてロサンゼルスでレコーディングしました。
「私の愛した20世紀たち」シリーズVol 8
初めてのアメリカツアーで知り合った音響エンジニアの小林裕人さんがこう言ったのです。
「世界中の田舎(カントリー)が集まったアメリカだから、トキコさんのこれまでの音楽を表現できる。ぜひこっちの選りすぐりのミュージシャンで、土の匂いのするアルバムをレコーディングしましょう。」
この言葉は、散っても深く心に響きました。
アメリカというものに、何を感じるか。どちらかと言えば、時代の先端という新しさ、とか派手な商業くささとか、そんなものが浮かんできそうだけど、反対に「土の匂い」と彼が言ったことに賛同したのです。
アレンジ、プロデュースはパトリック・セイモア。
素晴らしいキーボーデイストでした。
何度もミーティングを重ね、私のオリジナル曲と、世界の歌を約半分づつのバランスで選曲。
私の歌の中から、「Born OnThe Earth」「土に帰る」「一羽の鳥」「この世に生まれて来たら」、それにロス滞在中に作った「Seeds in the fields」「Jacaranda」を加えました。
アメリカでこその私の18番は、まずウデイ・ガスリーの「Deportee」、ブラジルに行った時に初めて歌った「オルフェの唄」、そしてアイルランドの名曲「ダニー・ボーイ」。
アイルランドの歌にはいいものが他にもあるよ、とパトリックがいろんな歌を聴かせてくれて、見つけたのが「Woman Of Ireland」。
「燃えるウイスキー 熱い唇 柔らかな微笑み
火のように強くて熱い Woman Of Ireland」
私の日本語で、パトリックの美しいキーボードにゆったり身を任せるように歌ったのでした。
この時、歌う前に、パトリックがアイリッシュビールのボトルを私に差し出したのです。
「これで乾杯してから、レコーディングしようよ」って。
レコーディングが全部終わった時、パトリックが話し始めたのは、彼のアイデンティティーについてでした。
「僕の母は、アイリッシュの奴隷でした。農場で働いていていつも歌っていたら、農場主が、君は歌手になるべきだ、と言って、彼女を街に送り出してくれたんだ。だから僕にはアイリッシュの歌は特別のものなんです」と。
アルバムが終わるまで言わなかったことが、その思いの深さを感じさせてくれました。
このアルバムの「ダニーボーイ」も大事な一曲。映画『タイタニック』で演奏していたリック・リグレが、あのアイリッシュの笛、ティン・ホイッスルを吹いてくれています。
アルバムタイトルは、『Tokiko Journey ─ Born On The Earth』。
この「ダニー・ボーイ」は今年の秋に発売するアルバム『花物語』にも、「花はどこへ行った」と一緒に収録しています。
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LATINAで「Tokikoの地球曼荼羅」に連載を初めて1年、私のたどった音楽の旅を楽しく綴らせていただきました。
まだまだ旅は続きますが、この最終回を書きながら、この地球がこんなにつながっているのだと、いうことを改めて感じることが出来ました。
新型コロナのパンデミックで、まだまだ世界からの苦悩が伝えられる中での開催だけに、東京オリンピックが、世界をつなぐ素晴らしいものになることを祈らずにはいられません。
(ラティーナ2021年7月)
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世界の音楽情報誌「ラティーナ」
「みんな違って、みんないい!」広い世界の多様な音楽を紹介してきた世界の音楽情報誌「ラティーナ」がweb版に生まれ変わります。 あなたの生活…