[2020.10]NORA|¡¡Salsa es mi energia!!【特集:都市物語】
文●NORA(オルケスタ・デ・ラ・ルス)
NORA●プロフィール
世界的な人気を誇るサルサバンド「オルケスタ・デ・ラ・ルス」のメインヴォーカル&作詞作曲家。
1984年、オルケスタ・デ・ラ・ルス結成。1987年、単身デラルスのデモテープを持ってNew Yorkに乗り込み、ライブツアーの約束を取りつけ、1989年に自費によるNew Yorkツアーを決行。このツアーで大ブレイクし、1990年BMGビクターより「DE LA LUZ」で国内、海外デビュー。このアルバムが全米ラテンチャートで11連続1位を獲得するという快挙を成し遂げた。その活動は世界に認められ、国連平和賞、グラミー賞ノミネート、日本レコード大賞特別賞(2回)、New York批評家協会賞、世界22カ国でのツアー、NHK「紅白歌合戦」出演、カルロス・サンタナとの共演、文化庁芸術選奨文部大臣新人賞(NORA個人で受賞)など、目覚ましい活躍を続ける。1997年に解散するも、2002年活動を再開。国内、海外ツアー、イベント出演、楽曲提供、国内のアーティスト(井上陽水、松任谷由実、宮沢和史、山崎まさよし、大黒摩季、他)とのコラボレーション、タモリカップ出演、学校公演など、「日本ラテン化計画」をテーマに、日本を明るく元気にするべく活動を続けている。
私のような、すでにサルサ化した人間にとって、都市と結びついた音楽と言うとそれは真っ先に、NYにおけるサルサとなる。1960年代後半にNYへ移民としてやってきた主にプエルトリコ系のラティーノが、自分たちのアイデンティティーを示すために盛り上げたのがサルサだからだ。
日本でサルサを聴き始めて、サルサに関しての知識が増えてきた21歳の時、1982年に私は初めてNYを訪れた。サルサが生まれたNYで生のライブを体験したくて、その当時流行っていた「CORSO」と言うアップタウンにあるサルサクラブに行くと、ベネズエラ出身のサルセーロ、オスカル・デ・レオンのライブを見ることができた。その夜のことは今でも鮮明に記憶に残っている。そこでの経験が私の熱いサルサライフの着火点だったからだ。
ベビーベースを弾きながら歌い踊るオスカルの迸るリズム感、それまで日本人からは感じたことのなかった初めての強烈な生々しいエネルギー。まるでアマゾンのジャングルの中で育ったかのような野性味溢れる歌声。そしてボレロを歌うとき、その声は甘く切なさを帯びた。
バンドのメンバーも魅せることを忘れないエンターテイナーであり、彼らの奏でるひとつひとつの音が生き生きと輝き、バンド全体の生音のバランスが絶妙で、彼の代表曲「Lloraras」 が始まると、会場全体が湧き立つパッションに包まれ、私は「これぞサルサ!!!」と思わず叫んでしまった。
日本ではビデオでしか見たことがなかった彼の演奏を体験して、私の鳥肌は頭皮の毛穴まで達し、ライブが終わるまで収まることはなかったほど衝撃的だった。
まさに眼から鱗が落ちる体験をしたのだが、この夜の「CORSO」にはナイトクラブ特有の煙草とお酒と香水の香りが充満し、ステージには想像を超えた最高のエンターテイメントがあり、フロアには沢山のラティーノたちが信じられないほどのハイレベルでカッコよく踊っていた。
この人たちはプロのダンサーじゃないよね? それでこのクオリティー?!
彼らの流れるようなペアダンスに完全に度肝を抜かれた。そこにある全てがまさにサルサだった。
こうして、私はサルサに恋したのだった。
終演後、「CORSO」から一歩外に出るとすでに朝焼けを迎えていたが、街は緊張感に包まれて、ホテルに戻るまで一瞬も気を抜くことはできないほど、当時のNYは危険だった。でもその緊張感がサルサを生んだ土壌にあるのだと、妙に納得した。サルサにはカリブの太陽のような明るさもあるが、同時に都会的でスリリングなアレンジが魅力的だからだ。
この旅の終わりに、絶対またNYに戻って来る! と心に誓った私は2年後、1984年デラルスを結成した。そして、1989年にメンバーの自腹でNYツアーを実現し、このツアーがきっかけとなりデラルスはブレークした。その後、1997年に解散、2002年の再結成を経て今年36年目を迎え、基本サルサライフまっしぐらに来たわけだが、振り返るとNYという大都市の変化とともに、サルサも変化してきたのだと思う。
1989年 初のNYツアーでのデラルス集合写真
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