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[2021.08]映画評『ドライブ・マイ・カー』

カンヌ脚本賞を受賞した濱口竜介監督の集大成にして最新型。
二つの孤独な魂がつかんだ真実の言葉の先に見たものは?

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文●圷 滋夫(あくつしげお / 映画・音楽ライター)

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8月20日(金)より、TOHOシネマズ日比谷ほか全国ロードショー!
©2021『ドライブ・マイ・カー』製作委員会
https://dmc.bitters.co.jp

 濱口竜介監督は乗り物が好きだ。キャリア初期の頃から、多くの作品でバスや電車の中での会話が生き生きと写し撮られている。例えば『親密さ』(2012)のラストでは、別々の電車に乗った男女の感情が切なく重なり合う奇跡的な瞬間が捉えられ、世界に自身の名を知らしめ日本でも一気に知名度を上げた『ハッピーアワー』(2015)は、冒頭のシーンからいきなりケーブルカーの中で、電車、バスはもちろん、フェリーまで登場する。本音と建前が入り混じる膨大な台詞による会話劇である濱口作品においては、乗り物による移動が風景を動かし、空気をかき混ぜる。車両内を歩き、ドアから飛び降り、相手と対峙する。ある意味それは、濱口作品のアクション・シーン的な要素を担っているように思える。

 そして村上春樹の同名短編小説を映画化した本作は、タイトルからも分かるように、自家用車の中の場面が重要な役割を果たすが、そこにはこれ迄の作品とは大きな違いがある。『ハッピーアワー』迄の作品に出てくる乗り物はほとんどが公共の交通機関で、それは描かれる物語が身近な世界で起こる小さな出来事で、日常と地続きだということを示している(もっとも濱口作品はいつもそこから強くて大きなものを紡ぎ出すことに驚かされるのだが)。しかし自家用車は閉鎖された空間という状況によって、内面のより奥深くに隠された心情までも引き出される可能性を秘めている。そして日常と隔絶されているからこそ何が起こってもおかしくないと感じさせ、物語がどこに運ばれるか分からないサスペンスを孕んでいる(因みに前作『寝ても覚めても』にも自家用車やタクシー、長距離バスが登場するが、商業映画デビュー作だったためか、あまり多くの時間は割かれていない)。

 物語はまず舞台俳優で演出家の家福(かふく)悠介(西島秀俊)と、テレビドラマの脚本家として活躍する妻(霧島れいか)との関係が描かれる。冒頭、艶やかな女性の声が語る不可思議でエロティックな話に、いきなり非日常の世界に連れて行かれる。それは妻が話す脚本のアイディアであることが分かり、そこから少しずつ夫婦のキャラクターが肉付けされてゆく。二人は自然体で相性も良さそうだが、妻にはどこか謎めいた “何か” も感じられる。そしてある朝、妻から「話がある」と言われるが、家福が深夜に帰宅すると妻が床に倒れていていた。すぐに救急車を呼ぶが、妻はくも膜下出血であっけなく死んでしまい、話は “秘密” として残る。その二年後、家福の車、真っ赤なサーブ900が軽快な音楽を纏って突っ走っている。ここ迄の約40分は、まだプロローグだ。

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 家福は広島で開催される国際演劇祭に演出家として参加する。そして車で一時間離れたホテルと稽古場の送迎ドライバーとして、演劇祭が手配したのが渡利みさき(三浦透子)だ。みさきは寡黙だが、誠実で目配りが利く。何よりプロに徹して、家福が妻に相手役の台詞を吹き込んでもらったテープで、台詞を練習している間はもちろん、常にその存在感を消している。むしろ死んでもテープの声として残り家福の中で生き続ける妻(原作では名前がない妻が映画では奇しくも “音” と名付けられている)の存在が、今も消えることのない家福の喪失感を鮮やかに炙り出す。しかし家福がみさきの完璧な運転技術の理由を尋ねたのをきっかけに、口数の少ない二人は少しずつ心を開いてゆく。そして明かされるみさきの壮絶な過去と、家福の妻に対するある想いが重なり合い、観る者は強く胸を締め付けられる。

 家福とみさきが交わす言葉の数々は、これ迄の濱口作品でも一貫して描かれてきた自己と他者(例えば『寝ても覚めても』で印象的に登場する牛腸茂雄の写真展が「SELF AND OTHERS」つまり “自己と他者” なのが象徴的だろう)のコミュニケーションというテーマに直接繋がっている。逆に言葉ではなく座席の位置やタバコなどを使い、少しずつ縮まってゆく二人の心の距離を映像によって印象付ける演出は、いかにも映画的な美しさで溢れている。そしてもう一つこのテーマと密接に関わるのが、原作ではタイトルとエピソードが少し言及されるだけなのに、大胆な脚色によって劇中劇として映画の中に取り込まれたチェーホフの「ワーニャ伯父さん」だ。演劇祭で上演されるその舞台を、家福が演出するという設定だ。

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 演劇も濱口作品ではよく取り上げられるモチーフで、『寝ても覚めても』にはやはりチェーホフの「三人姉妹」とイプセン「野鴨」が登場する。4時間を超える『親密さ』は、そもそも一つの演劇作品が出来るまでとその後のドラマを追い、舞台の本番が2時間そのままスクリーンに映し出される。また『ハッピーアワー』も演技のワークショップから発展して生まれた作品だ。これらはもう一つの一貫したテーマである、“演じる” という点でも通底している。さらに本作ではより緻密に演劇を取り込んで本筋の物語と上手く絡めることで、舞台の台詞と現実が何度も何度も響き合い、より一層強く胸を揺さぶられることになる。ちなみに演劇祭事務局の柚原を演じる安部聡子は、多くのチェーホフ作品をレパートリーとしてラジカルな舞台を創り上げる劇団地点の看板女優で、劇中劇を演じる俳優の中には平田オリザ主宰の青年団に所属する山村崇子と松田弘子もいる。

 家福演出の「ワーニャ伯父さん」はアジア諸国の俳優が集い様々な言語が飛び交う斬新なもので、そこに手話(=無音の会話は、やはり “音” と対比される)を取り入れたことでその表現は深く豊かなものとなり、より複雑な感情のレイヤーが生み出されている。発話障害者(耳は聞こえる)のユナ(パク・ユリムが本当に素晴らしい!)は、家福に「私は言葉が通じないけど見ることも聞くことも出来るし、時には言葉よりも多くのことを理解出来る」と伝えるが、それはコミュニケーションの本質とも言えるだろう。そして健常者の俳優陣も自国以外の言語は理解出来ず、舞台では誰もが相手に対して目と耳を凝らし、慎重に、そして必死に理解しようと努める。それは震災後に東北の人々に話を聞いた東北記録映画三部作『なみのおと』(2011)『なみのこえ』(2013)『うたうひと』(2013)で、聞き手が語り手と対峙し、真摯に耳を傾け相槌を打つのを繰り返す姿にも通じるだろう。

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 しかしこの舞台に参加する俳優の一人で、家福が妻に紹介された高槻耕史(岡田将生)は、それとは全く逆の、現代が抱える社会悪とも言えるコミュニケーションの闇に自ら足を踏み入れ、物語を大きく展開させる。高槻は自らを律することが難しい危うい存在だが、それでも家福に対しては真摯に向き合おうとしている。そして彼が語る自己と他者の話は、家福とみさきの心を動かす。高槻の「他人を理解するためには、まず自分自身を深く真っ直ぐ見つめ、自分の気持ちと正直に折り合いをつけるしかない」という言葉に、それまで他者に、そして自分自身に対しても頑なだった家福の心は、少しずつ溶け始めたように思える。

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 ピリオドを打つように何度も現れる車の移動シーンは、低く唸るようなエンジン音が通奏低音となって独特のリズムを立ち上げ、そこに石橋英子の気心が知れたメンバー(ジム・オルークや山本達久、須藤俊明etc.)との軽やかなバンドサウンドと、無調性のオルガンが醸し出すスペイシーな雰囲気が加わり、本編179分という長さをアッと言う間に走り抜ける。何より虚構と現実を交錯させながら見事に構築されたストーリーは、むしろもっと観ていたいと思わせ、日常と非日常が溶け合うような不思議な感覚のイメージと相俟って、全くオリジナルな映像作品になっている。特に終盤の怒涛の展開と、ラスト20分で二つの孤独な魂が虚飾を振り払い、全てをさらけ出して吐露する真実の言葉の先に、何が見えてくるかを是非劇場で確かめて欲しい。

 本作は過去作の様々な要素を踏襲しながらその全てにおいて進化を遂げた、濱口監督の集大成にして最新型だ。今年のカンヌ国際映画祭で脚本賞と3つの独立賞を受賞している。

(ラティーナ2021年8月)


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