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[2023.9]【連載タンゴ界隈そぞろ歩き ⑦】 泣き虫と猫の話

文●吉村 俊司 Texto por Shunji Yoshimura

私事だが、9月24日は横浜市緑区民文化センター みどりアートパークホールにて行われた映画 “Pichuco” の上映会&バンドネオン・トークライブに行ってきた。

映画は「ピチューコ」ことアニバル・トロイロの楽団のスコアをデジタルアーカイブで残すという取り組みを追いつつ、彼にゆかりのあった多くの人の証言で彼の生涯、彼がタンゴにもたらしたものを振り返る、というドキュメンタリー。この映画の日本語字幕制作に尽力されたバンドネオン奏者の小川紀美代さんのトークライブともども、大変楽しめた。

世界が愛するピチューコ

さて、ピチューコがアニバル・トロイロのニックネームであること自体は、タンゴファンの間では広く知られていることだと思う。でもそれがどういう由来なのか、ご存知だろうか。

アニバル・トロイロの生家はブエノスアイレスのアバスト地区にあった。若き日のカルロス・ガルデルが過ごした地であり、タンゴにとって大変重要な土地である。両親はいずれもイタリア南部からの移民の家系で、母フェリーサ・バニョーリはモリーゼ州イゼルニア県アニョーネ、父アニバル・トロイロはアブルッツォ州キエーティ県アルキがルーツだそうだ。1909年にブエノスアイレスのバルバネーラ教会で結婚した二人のもとに、1914年7月11日、3人目の子として男の子が生まれる。父親は自分と同じアニバルの名をその子に与え、さらに「ピチューコ」とあだ名を付けた。父親の親友の一人のあだ名でもあったピチューコという言葉、その語源はイタリアのナポリの方言で泣き虫を意味する「ピッチウーゾ」(picciuso) であるらしい。幼いアニバルが泣いたとき、父親は思わず「よしよし、ピチューコ」とあやした。それがそのまま生涯のあだ名となったのだ。幼子への父親の愛おしさがこもった、何とも優しい名前ではないか。

ピチューコが8歳の時、父アニバルは亡くなった。彼が母フェリーサにねだってバンドネオンを手にしたのは10歳の時なので、バンドネオン奏者としてのピチューコを父は見ることがなかった。10代半ばでトップレベルの楽団に参加、1937年には自身の楽団を結成して人気を博し、父が愛したピチューコはブエノスアイレス中の、いや世界中のタンゴファンに愛される存在となった。

参考:
Aníbal Troilo, el bandoneón mayor de Buenos Aires (アルゼンチン文化庁)
Aníbal Troilo (スペイン語版Wikipedia)

才気あふれる猫

そんなピチューコことアニバル・トロイロの楽団は多くの優れたミュージシャンを輩出した。アストル・ピアソラもその一人。トロイロ楽団が出演していたコリエンテス通のカフェ≪ヘルミナル≫に毎日通い詰めたピアソラは、楽団のレパートリーを全て暗記し、たまたまバンドネオン奏者に病欠が出た日に自らメンバーになりたいと申し出て、見事その座を勝ち取った。1939年、彼がまだ18歳の時である。やがてトロイロはピアソラに「ガート」(猫)というあだ名をつける。

トロイロがつけた<ガト>〔訳注・スペイン語で「猫」の意味〕は最も長く使われたピアソラのあだ名だが、その理由はいつも行ったり来たりしているのと、おそらく視線が鋭く、まるでレーザーのようだったからだとトロイロは語った(しかし、その当時はまだレーザーは発明されていない。ピアソラの<レーザー>というあだ名は、後に別のミュージシャンがつけた)。

ピアソラ その生涯と音楽(マリア・スサーナ・アッシ、サイモン・コリア―【著】、松浦直樹【訳】、斎藤充正【協力】、アルファベータ)p.52

トロイロ楽団でバンドネオン奏者としてめきめきと頭角を現し、編曲者にも抜擢されたピアソラ。彼はまたこのころ、クラシックの作曲家アルベルト・ヒナステラに師事して音楽理論も学んでいる。一処に留まらず向上心に燃える眼光鋭い青年ピアソラは、確かに猫のようだったのかもしれない。

しかし、ヒナステラに学んだことをベースにした新しいアイディアを楽団の編曲に盛り込もうとするピアソラと、あくまでダンスホールの音楽としてのタンゴから逸脱しないことを求めたトロイロとの間には、やがて緊張関係が生じる。若いピアソラが重用されることを快く思わない同僚からのやっかみもあった。ピアソラはストレスをさまざまないたずらで発散するが、それが度を越すに至り楽団にはいられなくなる(ステージに爆竹を仕掛けるなど、本当に度を越していた)。1944年のことである。そこから歌手フィオレンティーノの伴奏楽団の指揮を任され、やがて自身の楽団を結成。以後他の誰かの楽団のメンバーになることはなく、自身の道を突き進んでいくことになる。

誤解のないように付け加えると、トロイロがダンスのためのタンゴにこだわる守旧派だとか、ピアソラがその守旧派のタンゴを革新して聴くための音楽にしたなどというような、安易な構図ではない。彼は後にこう語っている。

その時から彼は、私の書くすべてのアレンジを検閲する立場になった。私が二百の音を書けば、彼は百を消した。ジェラシーの問題だという者がいたが、それは違う。彼はそんな些細なことなど超越したところに居たのだから。彼は一つのスタイルを守ろうとしただけだ。つまりオルケスタは、ピアソラがアレンジしてもピアソラの音がしてはならず、ガルバンがアレンジしてもガルバンの音がしてはいけないということだ。それはとてもフェアなことだと私は思う。それに、彼は正しかった。私は時々、彼を怒らせようと、複雑な和音を挿入したのだ。ヒナステーラから学んだことは何でも、彼のオルケスタで試してみたかった。

ピアソラ 自身を語る(ナタリオ・ゴリン 著、斎藤充正 訳、河出書房新社)p.54

(注:文中の「その時」はピアソラが最初のトロイロ楽団向け編曲を書いたときを指す。またガルバンというのは当時のトロイロ楽団の編曲者、アルヘンティーノ・ガルバンのことである。)

実際その後、トロイロはピアソラの新しいタンゴを積極的にレパートリーに取り入れ、ピアソラもまたトロイロ楽団に編曲を提供している。1970年に二人のバンドネオンだけで録音された「エル・モティーボ」「ボルベール」を聴けば、ピチューコとガートの師弟愛についてそれ以上の言葉はいらないだろう。

愛すべきゴルド

話をアニバル・トロイロに戻す。彼にはピチューコの他にもう一つあだ名があった。「ゴルド」(gordo) がそれである。辞書を引くと名詞としては「太った人」「脂肪」「脂身」等とある(参考:コトバンク)。トロイロの体型を見ると身も蓋もない気もするが、おそらくはもう少し柔らかく「太っちょ」「おデブさん」ぐらいの語感なのだろう。ブエノスアイレスの人々はトロイロへの親しみを込めて「ゴルド」と呼びかけた。「わが街のノクターン」で語られる自作の詞の終盤にも「ゴルド」を呼ぶ声が登場する。

Y si una vez me olvidé,
las estrellas de la esquina de la casa de mi vieja,
titilando como si fueran manos amigas, me dijeron:
¡Gordo! ¡Gordo! Quédante aquí, quédante aquí.

一度 おふくろの家のある街角で
優しい女の手のようにちらちらと瞬いている星に言われたよ
“ゴルド ゴルド ここに居て ここに居てよ” って

Nocturno a mi barrio (recitado), Letra y música: Aníbal Troilo、
訳詩は「アルゼンチンタンゴ 歌の世界へ 2」(大澤寛・著、非売品)より

ピアソラもオラシオ・フェレールの詞を得てトロイロに捧げた「悲しいゴルド」という曲を書いている。悲しみを見つめ、下町の兄としてみんなに慕われてきたゴルド。トロイロがまだ存命の1972年にアメリータ・バルタールの歌で録音されているが、アルゼンチンでリリースされたのはトロイロの死後の1976年のことだった。

アニバル・トロイロが亡くなったのは1975年5月18日。死因は脳卒中と心臓発作だった。経歴からも風貌からも高齢に見えるが、実際はまだ60歳だった。生まれた時の涙がもたらしたピチューコの名を呼んで、数えきれないほどの人が涙を流した。

音源

関連する音源のプレイリストを貼っておく。1~4はトロイロ楽団の演奏で、3はピアソラの編曲、4はピアソラの作編曲。5, 6は文中述べたトロイロ=ピアソラのバンドネオン二重奏、7は動画でも貼った「わが街へのノクターン」、8は「悲しいゴルド」だがアメリータの歌ではなくロベルト・ゴジェネチェとアストル・ピアソラ五重奏団によるもの。9~12はトロイロの訃報に接してピアソラが書いた「トロイロ組曲」である。

(ラティーナ2023年9月)


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