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[2023.11]【連載タンゴ界隈そぞろ歩き ⑧】 タンゴの詞の世界の住人はどんな酒を飲んでいるのだろうか

文●吉村 俊司 Texto por Shunji Yoshimura

皆さん酒はお好きだろうか。私はかなり好きな方で、ほぼ毎晩飲んでいる。普段は焼酎が多く、食べ物によっては日本酒やワインを選ぶこともある。ビールも好きで、スタンダードなピルスナー、ラガーからホップの香りが強いものや色の濃いエール系、スタウト系まで…まあ要するにに何でも飲むわけである。

ところで、タンゴと関わりのある酒といえば何だろう。普通はワイン、それも赤というのが一般的なイメージではないかと思う。しかし考えてみれば最後の盃の中味はシャンパンだし、男が6時ぴったりに死ぬ前の最後の酒はウィスキーだ。意外にワイン一辺倒ではなくいろいろな酒が登場しているのかもしれない。他人が何を飲んでいるのかが気になるのは酒飲みの常…かどうかは定かではないが、俄然気になって調べてみることにした。

こんな風に調べてみた

タンゴと関わりのある酒、と言っても漠然としているので、今回は詞の中に登場する酒に絞ってみる。いわば、タンゴの詞の世界の住人が飲んでいる酒の人気調査である。

この手の調査は調査対象となる母集団の選び方次第で結果に偏りが出てしまうので気を付けなければならない。インターネットのタンゴ歌詞サイトなども考えたが、今回はこれまでも色々お世話になっているタンゴ訳詞集「アルゼンチンタンゴ 歌の世界へ」Vol. 1~3(著:大澤寛/大澤苑子、発行:日本タンゴ・アカデミー、非売品、以下「訳詞集」とする)を対象にすることにした。電子データではなく紙の本なので目視で追う必要がありそれなりの手間ではあったが、結果としてはこの方法を取ったことは正解だった(理由は後述する)。

実際に行ったのは、訳詞集に掲載された訳詞から酒の名前を目視でピックアップし、対応する語を原詞から探して集計する、という作業だった。「酒場」「酔い」など酒そのものではない語については、今回は集計対象外とした。対象となる酒の名前がカタカナで表記されているものについては比較的簡単に見つけられたが、単に「酒」と訳されているケースも多く、これについてはもしかすると見落としがあるかもしれない。その旨予めお断りしておく。

集計結果

訳詞集全500曲あまりの中で、酒が登場したのは91曲。それらから集計した結果は以下の通り。なお、ひとつの曲に複数の酒が登場しているものはそれぞれカウントしている一方で、同じ曲の中で同じ酒を異なる語で表現しているもの(主にワイン)はひとつとカウントしている。

トップのアルコールは酒全般を指すケースもあれば、日本で「酒」と言ったときに日本酒を指すことがあるように特定の酒(おそらくワイン)を指すケースもあるだろう。2位ワイン、3位シャンパンはひとまず予想通りで、特にワインはそれを指す表現も多岐にわたる。4位のカーニャ、6位のぺルノーは日本人にはなじみのない酒かと思う。ワインの多様な表現やこれらの酒は事前に自分で候補として挙げることはできなかったもので、これらを拾うことができたのは適切な訳者による訳詞を手間をかけて順次目視で追ったことの成果である。

以下それぞれの酒について個別に見て行く。きちんとした分析ではなく、あくまでちょっと千鳥足でそぞろ歩いたピックアップとご承知いただきたい。なお邦題は訳詞集に準ずるが、一般的に知られている邦題が別にあるものについては併記する。

ワイン

ワインはやはりアルゼンチンの人々に欠かせない酒であろう。多くの曲に様々な形で登場する。ワインをタイトルに据えたものとしては "El vino triste"「悲しい酒」(詩 Manuel Romero、曲 Juan D'Arienzo)が真っ先に浮かぶ。それなりに悲しい内容の詞ながら曲調が明るいのはタンゴの常か。他に "El vinacho"「酔わなきゃ駄目だぞ」(詩 Julio Navarrine、曲 José Razzano)などという曲もある。"vinacho" は "vino" に示大辞 -cho が付いた語。この曲は若者に「お前は酔わなきゃ駄目だ/赤で強ければ強いほど良い」と説教を垂れる飲兵衛の歌、といった様相で、赤ワインの比較対象としてウィスキーやリキュール、グラッパなど様々な酒も登場する。

シャンパン

乾杯にはシャンパン、というイメージ。冒頭で述べた "La última copa"「最後の一杯」「最後の盃」(詞 Juan Andrés Caruso、曲 Francisco Canaro)もそうだし、"Por la vuelta"「再会を祝って」「めぐり逢い」(詞 Enrique Cadícamo、曲 José Tinelli)で別れた二人が再会して交わすグラスも、"Destellos"「きらめき」(詞 Juan Andrés Caruso、曲 Francisco Canaro)で失恋の悲しみを紛らわすために友と飲む酒もシャンパンだ。"Burbujas"「泡」(詞 Cátulo、曲 CastilloCarlos Figari)でははかなく消えるものの象徴としてさまざまな泡が登場し、その中のひとつにシャンパンも含まれる。華やかな印象と対比させる心情はさまざまだ。

カーニャ

多くの日本人にはなじみのない酒だろう。サトウキビから作る蒸留酒で、ラム等と同類と言える。感覚的には日本における焼酎のような位置づけかもしれない。そのものずばりの "Caña"「カーニャ酒」(詞 Enrique Esviza, Julián Araujo、曲 Enrique Mónaco)ではやくざ者が心の傷を癒すために、"Traiga otra caña"「カーニャ酒をもう一杯」(詞 Alberto Novión、曲 Antonio Scatasso)では男が失恋と母を亡くした悲しみを紛らわすためにこの酒を飲む。"De puro curda"「本物の酔い」(詞 Abel Aznar、曲 Carlos Olmedo)で「酒を飲むのに理由なんてない、飲みたいから飲むのだ」と息巻く酔っ払いが飲むのもカーニャ。

5位以下の酒

5位のリキュール(licor)は定義が広いが、意外に多くの曲で登場している。"La última curda"「最後の酔い」(詞 Cátulo Castillo、曲 Aníbal Troilo)で飲む酒は意外にもリキュールと、7位のラムである。ワインの項で述べた "El vino triste" にもリキュールがカーニャと共に登場する。

6位のぺルノーも馴染みのない酒。フランスの酒造メーカーであるペルノ・リカール社の名前がそのまま酒の名前として通用するようになったらしい。"El curdela"「酔っ払い」(詞 Jose Alfredo Luque Lobos、曲 Juan Maglio "Pacho")の飲む酒はぺルノー。余談だが、昔からのタンゴファンは≪Quinteto Pernod≫というグループをご存知の方もいらっしゃるかと思う。ピアノとギター、ギタロン、コントラバスというユニークな編成のグループで、このグループ名も酒のぺルノーから来ているらしい。残念ながらCDはなく、公式な形で配信されている音源も見つからないが、YouTubeでいくつか上がっている音源があるので興味のある方は探してみていただきたい。なおこのグループのリーダー、リト・エスカルソについては日本タンゴ・アカデミー機関誌『タンゲアンド・エン・ハポン』vol. 37(2016)で西村秀人氏が取り上げているので興味のある方は参照されたい。

8位のウィスキーは、そのものズバリの "Whysky"「ウイスキー」(詞・曲 Héctor Marcó)や、冒頭で言及した "Balada para mi muerte"「俺の死のためのバラード」「我が死へのバラード」(詞 Horacio Ferrer、曲 Astor Piazzolla)で登場する。

終わりに、そして音源

"Duelo curda"「酔っぱらいの通夜」(詞 Ernesto Cardenal、曲 Jaime Vila)という曲では、酒浸りだった男が死んだその通夜に集まった飲兵衛たちが繰り広げるどんちゃん騒ぎが歌われ、ワイン、グラッパ、ギンダ酒 (チェリーブランデーの一種)、アニス酒と様々な酒が登場する。要は何が起きてもそれにかこつけて酒を飲みたがるのが酒飲みというわけである。「タンゴの研究のため」と称して本稿を酒の肴に使っていただけることがあれば、筆者としては望外の幸せである。今回言及した曲をSpotifyのプレイリストにまとめたので、ぜひこれも酒の友としてお聴きいただきたい。あ、もちろん酒を飲まない方々も酒飲み観察として、或いは単に良いタンゴを楽しむために、どうぞ。

(ラティーナ2023年11月)


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