[2022.5]【連載 アントニオ・カルロス・ジョビンの作品との出会い㉒】初のヒット曲に冠された妻の名前 ⎯ 《Tereza na praia》
文と訳詞●中村 安志 texto e tradução : Yasushi Nakamura
まだプロ活動を開始していなかった1947年当時、音楽を習っていた恩師から与えられた課題の一環として、20歳のジョビンが作曲した「Imagina」が、彼のほぼ最初の作品ではないかというお話を、この連載の18回目で申し上げました。今回は、その後音楽家としてのキャリアを徐々に築いていった過程で作られ、ジョビン初のヒットと位置付けられてもよい、「Tereza na praia(浜辺のテレーザ)」という歌をご紹介します。
1945年。それまで、水泳を含め様々なスポーツに長けた精悍な18歳のジョビンは、機械体操で組んだ「人の山」から落下する事故に見舞われ脊椎を損傷、ドクターストップにより、運動を控えるようになりました。その後ジョビンは、夜の酒場でのピアノ演奏を生業とするようになり、後年、このことを「私はそれからというもの、海にも行かなくなり、“暗闇の立方体(夜の店)” の中に潜ることになった」と述懐したそうです。
翌46年には、現在のリオ連邦大学に当たるブラジル大学で建築学を学び始めますが、背に腹は代えられなかったのでしょうか、そうこうせぬうちに中退。名のある建築家のオフィスで体験させてもらっていたインターンの仕事も、辞めてしまいました。ジョビンは、その理由を「人と人の競争にまみれ、他の者よりもずる賢くあらねばやっていけない(建築の)世界には、嫌気が差したから」と説明しています。後年の世界的ヒットで豊かになったジョビンですが、ライバルと激しくせめぎ合い勝ち抜くといったバリバリのビジネスの世界には馴染まない、彼の性格を物語る発言と言えるかもしれません。
一晩のうちに、リオ市内の複数の酒場をハシゴで演奏して回り、コパカバーナ地域の南端で遅くまで営業していた Faroeste(西部)という店でその夜の仕事を終えることが多かったとも。更に伝えられるところでは、ジョビンは、酔っ払いも含め、懸命に演奏していても演奏に耳を傾けてはくれない客が多い酒場での仕事を、不快に感じていたようです。中には何かの情事をめぐる怨恨なのでしょうか、給仕に向けられた発砲事件が起き、危うく自分に銃弾が当たりそうになるといった出来事もあったとか。
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