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[2021.06]【連載 アルゼンチンの沖縄移民史⑥】「世替わり」の中の移民と文化

文●月野楓子

 去る6月23日は「慰霊の日」だった。76年前の今日、沖縄に配備された日本軍の司令官が自決し、組織的な戦闘は一応終結したとされる(以降も離島での戦闘や日本軍による住民殺害、飢餓等によって多くの人が亡くなった)。戦争による惨禍が再び起こることのないよう「恒久の平和を希求するとともに戦没者の霊を慰める」ため、「慰霊の日」が制定された。県内の学校や役所は休みとなり、様々な場所で祈りが捧げられる。
 地上での戦いが展開された沖縄戦では20万人以上の人々が命を落とした。そして、その多くは民間人であった。戦争から過ぎた年月は本土と同じであるのに、沖縄と戦争との距離が近く感じられるのは、広大な米軍基地の存在と、語らない・語れないということも含めた記憶と傷が今もこの地に生き続けているからだろう。

平和の礎(2017)

平和祈念公園内の慰霊碑「平和の礎(いしじ)」犠牲者が刻名されている

 戦後、沖縄は米軍統治下に置かれた。そして、この時代を「アメリカ世(あめりかゆー)」と呼んだ(現代の沖縄では若者にもこの言葉は馴染みがないようだ)。「アメリカ世」以前は、「琉球処分」によって日本に包摂された「大和ぬ世(やまとぅぬゆー)」で、中国と朝貢関係にあった時期は「唐ぬ世(とーぬゆー)」と呼ばれたりする。
 そして、沖縄の外側からやってきた統治者・施政者の交代を「世変わり」と呼び、時代の移り変わりをあらわした。施政者たちは「世」が変わった沖縄を自らの意に沿う形で動かそうと、「戦略」を立て、新たな価値観を植え付けていった。その一つが、戦前・戦後で変化した、沖縄文化に対する扱いである。

 異なる文化政策は抑圧と奨励という、相反するものであった。それは沖縄内部に居続けた人々だけでなく、戦前「大和ぬ世」から移民していった人々と、戦後「アメリカ世」から移民していった人々の双方に影響を与えた。
 そこで今回からは、移民を通して沖縄文化をめぐる状況の変化を眺めるとともに、移民個人にとって、あるいは移民社会において、文化、とりわけ沖縄の芸能がどのような意味を持っていたのかをみていきたい。一回で書くには内容が多すぎるため、今回はまず、移民たちが渡航するまで暮らした「大和ぬ世」の沖縄において、文化をめぐってどのような政策がとられたのかを概観する。

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