[2020.12]宇戸裕紀【特集 私が選ぶラテンアメリカの本】
選・文●宇戸裕紀
遠くにある異国のあり方を深く知るためには多くの手段がある。ニュース、外国語会話学校、旅行、留学、料理、音楽、文学、映画…どれもがその国の側面を映し出しているが一つだけでは不充分だ。そのいくつかをバランスよく摂取することでお互いが補完しあって、生き生きとした経験として身体に染み渡っていく。私がスペイン語を学び始めたひとつのきっかけがスペイン・ラテンアメリカの文学を直接原語で触れることができるからだったが、その魅力に改めて気がつくのは住んでみて文学で読んだような体験を実際にしてからだった。メキシコの作家フエンテスやパチェーコが語る摩訶不思議な話は何もかもが不思議で可笑しいメキシコシティに住んでみると合点がいく。文学大国アルゼンチンからはコルタサルやボルヘスのように濃密なヨーロッパの影響を受けつつラテンアメリカの国としてアイデンティティを獲得していこうとする姿に国そのもののあり方が浮かび上がる。1人の文学好きとしてスペイン語を通して触れて来たこの作家の文章は血の中に脈々と流れているような気がする。
ラテンアメリカ10大小説
木村榮一『ラテンアメリカ10大小説』
マリオ・ベネデッティ、ルベン・ダリオ、パブロ・ネルーダ、フアナ・デ・イバルボウロウ…スペイン語で読んだいくつかの詩は青年期に読み漁ってトイレの壁に貼ったり、ノートに書き写したり、誰かに暗唱(聞きもしないのに)したりして今でも心に焼きついている。ラテンアメリカの詩や文学が好きになるきっかけとなったのが圧倒的な量のスペイン・ラテンアメリカ文学を翻訳してきた翻訳者によるこの紹介書。ガルシア・マルケスから始まる連綿たるラテンアメリカ文学のざっくりとした概略をつかむためにはここから紐解いて派生させていくのも手。ヨーロッパ文化がギリシア・ラテンを基礎としているのと同様に、ラテンアメリカ文学に触れたベースがないとスペイン語圏の人たちと同じ土俵に上がることもできなかったりもする。木村先生は母校の学長をされていたこともあって、不定期で昼休みに開催されていたおしゃべり会をひそかに楽しみにしていた。半自伝的な翻訳エッセイ『翻訳に遊ぶ』とともに、その自由闊達なおしゃべりそのままの文章も飾らなくていい。
タンゴ100年史 上・下
高場将美 『タンゴ100年史 上・下』
ラテンアメリカの音楽を専門に扱うというラティーナというこの特殊な会社に勤め始めた頃、タンゴは恥ずかしながらガルデルとピアソラくらいしか知らず、どれも同じに聴こえた。でも高場将美さんのこの本やバンドネオン演奏家の視点からタンゴを紐解いていく小松亮太さんの『小松亮太とタンゴへいこう』に出逢ってやっと誰が誰だかなんとなく把握できるようになってきた。『タンゴ100年史』が他の人物辞典のようなものとは印象が違うのは、19世紀のタンゴ黎明期から現代に至るまでタンゴアーティストたちの活動をまるで全てを横で観ていたかのような人間味あふれる巧みな筆致が大きい。タンゴという複雑なルーツを持った音楽ができていった背景を知るためには数字やレコード会社の名前を並べたディスコグラフィーも資料としてはいいが、やはりストーリーが語られて初めて身に染みこんでくるものがある。このタンゴ愛に満ちた素晴らしい記録を後世に伝えるべく、紙媒体で再版されることを望んでいる(現在入手できるのは電子版のみ)。
遊戯の終わり
フリオ・コルタサル 『遊戯の終わり』(木村榮一訳)
1冊だけラテンアメリカの文学本を薦めるとしたらフリオ・コルタサルの短編集。とにかく不思議な話が進んでいくが、誰も驚くこともなくあまりにも淡々と語られるのでいつのまにかその世界に馴染んでいく。『山椒魚』では、ある男が山椒魚を毎日見つめているうちに知らぬ間に自分と入れ替わる。『南部高速道路』では数ヶ月にも及ぶ渋滞が発生するが、誰も騒ぐことなくいつの間にか運転手間でコミュニティーが形成されて助け合い、生き延びていく…。突拍子もない話が起こり、粛々と受け入れられて既成事実化しているというのが大体のパターンなのだが話しの流れの巧妙さのため「そうなんだ」と受け入れるしかない。筆者がブエノスアイレスの役所に手続きをしに行った際、あちらこちらに理不尽にたらい回しにされてやっとこの話が理解できた。これこそがラテンアメリカの「無秩序的な秩序」というものなのだ。あらゆる無茶苦茶な扱いにもいちいち腹を立てるのではなく、あるがままに受け入れるしかないのだ。全てが段取り通りに進む日本に慣れてしまってはなまってしまうので時折この頁をめくって「無秩序の香り」を精神に注入することにしている。
(ラティーナ2020年12月)
宇戸裕紀(HIRONORI UTO) ●プロフィール
月刊ラティーナ編集部スペイン語圏担当。20代の頃にメキシコ、アルゼンチンで計5年を過ごしたこともあり、メキシコでの錯綜した日々を想い出するカルロス・フエンテスやマテの香りがするアルゼンチン・ウルグアイ文学がお気に入り。
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