[2022.1]【太平洋諸島のグルーヴィーなサウンドスケープ⑱】 “Sayonara Nakamura”―沖縄の真珠採りダイバーに捧げる歌―
文●小西 潤子(沖縄県立芸術大学教授)
先月号では、オーストラリアの木曜島Thursday Island を拠点とした和歌山をはじめ愛媛、広島からの真珠採りダイバーと、その操業にまつわる歌をご紹介しました(2021年12月号)。今回取り上げるのは、沖縄からの真珠採りダイバーの物語です。
その発端となるのは、オーストラリアのテッド・イーガン Ted Eganさんが1983年に作詞作曲し、1993年に録音した “Sayonara Nakamura” という歌です。主人公は、19歳のナカムラ青年。恋人を故郷の沖縄に残して、西オーストラリアでダイバーをしていました。ある日、操業中に突然の嵐がきたため、ナカムラ青年は72mの深海から引き上げられ、減圧できずに潜水病で亡くなってしまいました。そして、約1,000人の日本人真珠採りダイバーが眠るブルームの墓地に埋葬され、故郷に帰れなくなったというお話です。
実際のところ、戦前沖縄から渡ってきたダイバーの数は、和歌山に比べると決して多くはありませんでした。以下の統計は、オーストラリアと沖縄で調査にあたったジョン・ラム John Lamb さんの報告によります。
1920年代初頭、木曜島に渡ってきたのは、沖縄本島周辺の離島から2名。1930年代にはその縁故者からなる23名が、広島寮などを拠点にラガー船の乗組員をしていました。オーストラリアの真珠産業は、木曜島以外でもノーザンテリトリー州の行政中心地・ダーウィン、西オーストラリア州北部の都市・ブルームでも繁栄していました。しかし、戦前これらの地域にいた沖縄出身者はわずかだったそうです。ちなみに、木曜島からブルームまでは直線距離でも2,300km 以上。あらためて、オーストラリアの広大さを思わせますね。
さて、木曜島にいた23名のうち6名は、戦前に帰沖。戦後収容所に連行された16名も、帰沖しました。たった1人、故郷に戻ることが出来なかったのが、当時20歳だったゼンシュンさんでした。ラガー船で3年間の経験を積んだゼンシュンさんは、コリン号の船長かつ優秀なダイバーでした。その命綱を握ったテンダーは、14年の経験のあるゼンシュンさんの実父。
悲劇が起こったのは、1940年12月1日のことでした。水深約32~38mの地点で、この日7回目の潜水を終えたゼンシュンさんは、潜水服を着けたまましばらくデッキで椅子に座っていました。しかし、顔面蒼白になってフラフラしているのにお父さんが気づき、捕らえようとしたところ2人ともデッキに倒れてしまいました。潜水病(減圧症)を疑った乗組員は、ゼンシュンさんにヘルメットをかぶせて、再加圧するために再び深い海中に沈めました。
しかし、ゼンシュンさんはすでに脈がなくなっており、数時間後に麻痺で死亡が確認されたのです。唯一、戦前にオーストラリアに埋葬された沖縄出身のダイバーとして、ゼンシュンさんは、お父さんが木曜島の墓地に立てたお墓で眠っています。
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