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[2021.06]6月24日は45年前に、カエターノ、ジル、ベターニア、ガルの「ドーシズ・バルバロス(Doces Bárbaros)」が初公演を行った日【ブラジル音楽の365曲】[6/21〜6/27]

面白くてタメになる1日5分の音楽鑑賞「ブラジル音楽の365曲」[6/21〜6/27]

文:花田勝暁(編集部)

 2021年3月1日から「ブラジル音楽の365曲」をスタート。
 ブラジル音楽やブラジル文化についての情報を盛り込んで、面白くてタメになる1日5分の音楽鑑賞の場を提供できたらと思っています。毎日更新で、この投稿から17週間目に入ります。

※7月はじめの自社主催イベントの準備が本格化してきているため、毎日更新するのが難しくなってきました。7月初旬まで更新頻度が少なくなります。

先週の分↓

6月24日 「Os Mais Doces Bárbaros(最も甘い野蛮人たち)」

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左から、マリア・ベターニア、カエターノ・ヴェローゾ、ガル・コスタ、ジルベルト・ジル

 6月24日は、バイーアの4人組、カエターノ・ヴェローゾ(Caetano Veloso)、ジルベルト・ジル(Gilberto Gil)、マリア・ベターニア(Maria Bethânia)、ガル・コスタ(Gal Costa)の「ドーシズ・バルバロス(Doces Bárbaros|甘い野蛮人たち)」が1976年に初公演を行った日です。
 (カエターノとジルが亡命していたので)バイーアの4人が再会した歴史的なショーで、会場はサンパウロの劇場「パラシオ・ダス・コンヴェンソォィス(Palácio das Convenções)」でした。

 プロデュースはギリェルミ・アラウージョ(Guilherme Araújo)、監督はファウジ・アラピ(Fauzi Arap)が務めて、MPB史に残るステージとなりました。この時の様子は、ライヴ・アルバム化され、映像でも残っています(DVDで販売もされました)。

Com amor no coração
Preparamos a invasão
Cheios de felicidade
Entramos na cidade amada
 心には愛を込めて
 我々は侵略の準備をしています
 幸せいっぱいに
 我々は最愛の街に入ります

Peixe Espada, peixe luz
Doce bárbaro Jesus
Sabe bem quem, né, otário?
Peixe no aquário nada
 メカジキ(Peixe Espada)、発光魚(peixe luz)
 甘い野蛮人、ジーザス
 誰だか知ってるよね、若人よ
 水槽の魚が泳ぐよ

Alto astral, altas transas, lindas canções
Afoxés, astronaves, aves, cordões
Avançando através dos grossos portões
Nossos planos são muito bons
 明るい人、昂る興奮、美しい歌の数々
 アフォシェ、宇宙飛行士、鳥、行列
 ぶ厚い門を通っていく
 我々の計画はよく練られている
 (※Afoxé:アフロ・ブラジリアン宗教であるカンドンブレに影響を受けた歌やリズムで踊る集団)

...

(「Os Mais Doces Bárbaros」作詞作曲:Caetano Veloso)


6月22日 Hermeto Pascoal

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Hermeto Pascoal - Portrait by Gert Chesi

 6月22日は、エルメート・パスコアール(Hermeto Pascoal|1936年6月22日 - )の誕生日です。今日で、85才。第一線でステージに立ち続けています(コロナ禍の前までは)。

 「#ブラジル音楽の365曲」としては変則的ですが、簡潔でツボを押さえたエルメートの日本語バイオグラフィーを用意したいと思い、用意しました。エルメートの楽曲って、著作権が放棄されているんですね。音楽家の皆さん、演奏しても録音しても、著作権料は発生しないはず! です。

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 エルメート・パスコアール(アラゴアス州、アラピラカ出身、1936年6月22日 - )作曲家、アレンジャー、マルチインストゥルメンタリスト。
 絶え間ない実験から生み出されてきた彼の作品のユニークさは、音楽ジャンルの類型や分類に当てはめることが困難であるということに現れています。エルメートのレパートリーの中で、地方の伝統音楽、国内の音楽、世界の音楽、ポピュラー音楽、クラシック音楽の境界線が濃密に交錯しています。

 エルメート・パスコアールは非常に幼い頃から音楽を作り始め、当時より、彼の関心は自然の音に向けられてきました。8ベースのアコーディオンで、父親や兄から演奏を学びました。

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左手の方のボタンが8つのアコーディオンのことを「8ベースのアコーディオン」というみたいです。

 11才の時には、すでに、ラジオや地元のパーティーで演奏していました。1950年、14才の時に家族と一緒にレシフェに引っ越し、そこで、兄や作曲家のシヴーカと、アコーディオンのトリオを結成しました。

 1954年(18才の頃)に、ピアノを習い始め、その3年後に、オルケストラ・タバジャラ(Orquestra Tabajara)に参加するためにジョアン・ペソアに引っ越しました。1958年に、リオに引っ越し、ラジオ局「Rádio Mauá」で楽器奏者として仕事を得ました。1961年にサンパウロに引っ越し、フルートを習得して、様々なグループの一員として、ナイトクラブで演奏しました。

 サンパウロでの経験は、楽器奏者としての彼のキャリアを確固たるものにします。この時代に、「Conjunto Som 4」(1964年)、「Sambrasa Trio em Som Maior」(1966年)を録音しました。エラルド・ド・モンチ(Heraldo do Monte)、テオ・ヂ・バーホス(Théo de Barros)、アイアート・モレイラ(Airto Moreira)とのグループ「Quarteto Novo」に参加し、エドゥ・ロボが「Ponteio」を歌って第3位となったTVヘコルヂの1967年の歌謡フェスティバルで、伴奏しています。
 「Quarteto Novo」は同年、ジェラルド・ヴァンドレー(Geraldo Vandré)のツアーに参加し、またアルバム『Quarteto Novo』をリリース。同アルバムは、ある種のノルデスチ(北東部)のボサノヴァを創造しており、インストゥルメンタル音楽の記念碑的作品と考えられています。

 1969年に、アイアート・モレイラと歌手のフローラ・プリン(Flora Purim)の招きで、エルメートはアメリカを旅して、国際的なキャリアを開始する段階に入りました。
 アメリカで、エルメートは最初のソロアルバム『Hermeto』を録音、マイルス・デイヴィスといったジャズ・ミュージシャンの録音にも参加しました。マイルスとの録音は、アルバム『Miles Davis / Live-Evil』の中に収録され、エルメートのペンによる「Igrejinha」「Nem um Talvez」も収録されています。

 国際的な音楽界の巨匠たちとの経験を経て、自作曲や非常に実験的な作品が中心となる新たな段階へと進んでいきました。

 ブラジルに戻り、1973年にブラジルでの初めてのソロアルバム『A Música Livre de Hermeto Pascoal』をリリース。1976年には、動物、風、水などの自然界の音や、電子機器、やかん、洗面器などの日常的な物の音から「音楽を引っ張ってくる」という最初の実験を行ったアルバム『Slaves Mass』を発表しました。このアルバムの録音するにあたり、エルメートはスタジオに豚を連れて行き、またコンサートにも豚を連れて行きました。

 エルメートは、どんな状況や場所でも音や雑音を聞き取ることができ、
それを直後に音楽に変えることができる優れた感性を持っています。最も本能的な宇宙と、言語の形成との間にあるこの変換を、他の誰にもできない彼の才能によって行います。
 イタリアの音楽学者 Enrico Fubini は、エルメートのことを「自然で、本能的で、言語以前で、型にはまらない」と指摘しましたが、先の特徴(宇宙と言語の形成との間にある変換)は、この形容と一致しており、エルメートの音楽は、音楽言語や音楽理論に先立つものであり、従って、エルメートの音楽は常に定義することが困難なのです。

 エルメートは、サンパウロ芸術批評家協会(APCA)から2回表彰されています。1972年に最優秀ソリスト賞、1973年に最優秀アレンジャー賞を受賞しています。1978年には、スイスのモントルー・ジャズ・フェスティバルに参加し、1979年にはアルバム『Ao Vivo em Montreux Jazz』を発表しています。


 どんな日常の表現の中にも音や音楽を聴く練習は、エルメートの生活の中での珍しい経験の中で起こります。1981年に、日常的な共存の中で音楽制作を深めることを目的として、リオの自宅に一種のコミュニティを作りました。こうして、「家族のワークショップ(oficina familiar)」を立ち上げ、そこは楽器奏者のための学校となりました。多くの音楽家がそこで学んだ中に、ピアニストのジョヴィーノ・サントス・ネト(Jovino Santos Neto)がいました。ジョヴィーノは長年、エルメートのグループに鍵盤奏者として参加しました。

 自然の音、騒音、話された言葉を数え切れないほど経験した後、エルメートは「サウンド・オブ・オーラ(som da aura)」と名付けた音楽概念を確立しました。

 1984年のアルバム『Lagoa da Canoa, Município de Arapiraca』で、エルメートはこのやり方を続け、スポーツ実況の声(「Vai mais Garotinho」「Tiruliruli」)、犬の遠吠え(「Spock na Escada」)、オウムの話し声(「Papagaio Alegre」)を音楽に取り込み融合させました。

 1992年の『Festa dos Deuses』では、このやり方をさらに深め、ウイラプル(マイコドリ属の鳥)、サビア鳥(つぐみの1種)、鶏、マガモといった鳥の鳴き声や、詩人で俳優のマリオ・ラゴ(Mário Lago)や元大統領のフェルナンド・コロル・デ・メロ(Fernando Collor de Melo )のスピーチで、音楽を奏でています。

1996年から1997年の間、エルメートは1日に1曲作曲することを自らに課し「音のカレンダー(Calendário do Som)」を作り上げ、1999年にその楽譜が出版されました。

※楽譜はこちらからダウンロード可能。
後に、Itiberê Orquestra Família が楽曲をセレクトした上で録音しました。

 このような「自然で本能的」な原点から生まれる音楽のプロセスは、エルメートの「ユニヴァーサル・サウンド(som universa)」という考えによって完成し、音楽をテーマやジャンルで囲ってしまうことができなくなります。
 70才の誕生日を迎えた2006年には、ジョヴィーノ・サントス・ネトが編集した15曲入りのスコアブックを制作しました。このスコアブックはWeb上で無料で配布しています。2009ねんには、この自由主義的な態度を更に進め、エルメートが作曲した曲614曲全ての権利を放棄しました。

※15曲入りのスコアブックはこちらからダウンロードできます。

※重ねて、事実確認しましたが、エルメートは自作曲の著作権を放棄しています。
https://www.facebook.com/hermeto.pascoal.o.campeao/posts/229641147374109/

 エルメート・パスコアールは、音のミクスチャーを作品の中心的要素とすることによりブラジルの文化的多様性と自然を反映し、その音楽のユニバーサル性(普遍性 / 全世界性)を映し出しています。

 以上、変則的ですが、今日は、信頼しているソースから、エルメート・パスコアールの日本語バイオグラフィーを用意しました。



6月21日「Machado de Assis」

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 6月21日は、「ブラジル文学史上、最大の文豪」とマシャード・デ・アシス(Machado de Assis|1839年6月21日 - 1908年9月29日)の生まれた日です。1839年に当時首都だったリオ・デ・ジャネイロで生まれ、貧しい家庭で育ちました。生誕182年。

 現在、ブラジル文学で最も重要な作家として認められていますが、生前は有名にはなりませんでした。独学で、書店や印刷所で働きながら詩人として文壇にデビュー。新聞の時評,詩,戯曲,短・長編小説、翻訳など手がけたジャンルは多岐にわたります。当時のブラジル文壇は、フランス文学の影響が強かったが、マシャード・デ・アシスは英文学の影響を強く受けていました。

 代表作は、1881年に発表された『ブラス・クーバス死後の回想』(Memórias Póstumas de Brás Cubas)や、1899年に発表された『ドン・カズムーロ』(Dom Casmurro)。

1896年にブラジル文学アカデミーを設立し、初代会長となりました。マシャード・デ・アシスを抜きにブラジルの文学を語れないほどの存在感を誇ります。

 『ブラス・クーバスの死後の回想』と『ドン・カズムッホ』は、光文社古典新訳文庫でも読むことができます。

 名サンビスタのマルチーニョ・ダ・ヴィラ(Martinho da Vila)が、マシャード・デ・アシスをテーマにした、その名も「Machado de Assis」というサンバ・エンヘードを1980年に作っています。マルチーニョ・ダ・ヴィラは、エスコーラ・ヂ・サンバ「ヴィラ・イザベル(Vila Isabel)」のパレードで使われたサンバ・エンヘードを10曲以上作曲していますが、「Machado de Assis」は、パレードには採用されなかったようです。マシャード・デ・アシスの生涯のことがわかる、教育的な歌詞です。

Um grande escritor do meu país
Está sendo homenageado
Joaquim Maria Machado de Assis
Romancista consagrado
Nascido em 1839
Lá no morro do Livramento
A sua lembrança nos comove
Seu nome jamais cairá no esquecimento
Lara...
Já faz tantos anos faleceu
O filho de uma humilde lavadeira
Que no cenário das letras escreveu
O nome da literatura brasileira
 私の国の偉大な作家が
 オマージュを捧げられている
 彼の名はジョアキン・マリア・マシャード・デ・アシス
 本物と認められた小説家
 1839年に
 リヴラメントの丘(モーホ)で生まれた
 彼の残した作品が私たちを感動させる
 ララ...
 もうずっと前に亡くなった
 しがない洗濯屋の息子は
 文学を舞台に
 ブラジル文学を書き上げた

De Dom Casmurro foi autor
Da Academia de Letras
Foi sócio fundador
Depois alcançou a presidência
Tendo demonstrado
Grande competência
Ele foi o literato-mor
Suas obras lhe deram
Reputação
Quincas Borba, Esaú e Jacó
A Mão e a Luva
A Ressurreição
Ele tinha
Inspiração absoluta
Escrevia com singeleza e graça
Foi sempre uma figura impoluta
De caráter sem jaça
 ドン・カズムッホの作者
 ブラジル文学アカデミーの
 創設者の1人で
 初代会長になった
 素晴らしい才能を示した
 彼は文学者で
 その作品でマシャードは
 評価された
 「Quincas Borba(キンカス・ボルバ)」に「Esaú e Jacó(エサウとヤコブ)」
 「A Mão e a Luva(手と手袋)」に
 「A Ressurreição(復活)」といった作品
 彼は絶対的な
 インスピレーションを持っていた
 マシャードはシンプルで優美な文章を書いた
 マシャードはいつも完璧な性格で
 汚れのない人物でした

...

(「Machado de Assis」作詞作曲:Martinho da Vila)

(ラティーナ2021年6月)

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