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[2024.9]【映画評】日本映画の明るい光『ぼくのお日さま』『ナミビアの砂漠』  

日本映画の明るい光
『ぼくのお日さま』『ナミビアの砂漠』

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文●あくつ 滋夫しげお(映画・音楽ライター)

 2024年は『夜明けのすべて』(三宅唱監督)『悪は存在しない』(濱口竜介監督)『ミッシング』(吉田恵輔監督)など、日本を代表する中堅監督のキャリアハイ・レベルの作品が既に公開され、この後も呉美保監督『ぼくが生きてる、ふたつの世界』や石井裕也監督『本心』などの期待作が公開を控えている。そんな邦画が充実した今年の中でも9月6日は、日本映画界の未来を明るく照らすであろう二人の新鋭監督の二作目の作品が、奇しくも同日公開される。将来2024年9月6日が、『ぼくのお日さま』『ナミビアの砂漠』という全く手触りの違う傑作が公開された日として、映画ファンの心に深く刻まれることを期待しながらこの二本を紹介しよう。

『ぼくのお日さま』
9/6(金)〜9/8(日)テアトル新宿、TOHOシネマズシャンテにて3日間限定先行公開
9/13(金)より全国公開  配給:東京テアトル
©2024「ぼくのお日さま」製作委員会/COMME DES CINÉMAS

 『ぼくのお日さま』は、大学在学中に制作した初長編作『僕はイエス様が嫌い』(2019)がサンセバスチャン(最優秀新人監督賞)やストックホルム(最優秀撮影賞)、ダブリン(最優秀撮影賞)、マカオ(スペシャルメンション)など多くの国際映画祭で受賞を果たし、世界の注目を集めた奥山大史監督の第二作にして商業映画デビュー作で、今年のカンヌ国際映画祭「ある視点」部門に正式出品された。奥山は第一作に続いて監督、脚本、撮影、編集を全て一人で手掛けている。

 北国の田舎町で暮らすタクヤ(越山敬達)は、少し吃音のある引っ込み思案の小学6年生だ。夏は野球、冬はアイスホッケーをやっているが、どちらも練習について行けず、やる気も出なかった。タクヤは練習帰りにフィギュアスケートを練習する少女さくら(中西希亜良)を見かけ、その優雅な滑りに心奪われるが、さくらはコーチの荒川(池松壮亮)が気になっていた。荒川はケガで夢破れた元選手で、恋人の五十嵐(若葉竜也)と一緒に暮らしている。ある日フィギュアの動きを真似て何度も転んでいたタクヤは、荒川に声を掛けられ教えて貰うようになり、自ら進んで練習に励んだ。しばらくして荒川は、タクヤとさくらにペアを組んでアイスダンスに挑戦してはどうかと提案するが…。

©2024「ぼくのお日さま」製作委員会/COMME DES CINÉMAS

 冒頭、緑がまぶしい野球グランドに初雪が降り始め、そこに白球が飛んで雪に交じると、やがて場面は一面真っ白な雪の世界に変わっている。そんな軽やかで鮮やかな映画的感性が本作を貫き、言葉で名付けようもない感情が、セリフではなく映像を通して描かれる。強く印象に残るのは、逆光を多用して光までも映し込んだ奇跡的な映像だ。特にスケートリンクの窓から差し込む淡い赤、青、黄、緑の光の中で滑るさくらの姿は、光の絵の具で微妙に揺れ動く感情までも描いた印象派の絵画のようで儚く神々しい。そこで流れる音楽も印象派の作曲家ドビュッシーの「月の光」だ。また3人それぞれの思いが1つになる野外の練習場面でも、夕陽に反射する氷のきらめきが美しい。しかし3人が織り成す高揚感は、雪の結晶のように繊細で壊れやすいのもまた事実なのだ。

 誰にでも、言いたかったけど言えなかったという記憶があるだろう。本作はそんなことばかりの少年が一人の少女と出会い、一冬を通じて“何か”を見つけていく姿を瑞々しく描いた、切なくもほろ苦い、そしてじんわりと愛おしい珠玉の青春映画だ。また二人を見つめる荒川にも挫折と恋人との生活があり、会話の中から伺われるこれまでとこれからの世知辛い人生が並行して描かれ、本作に深みを与えている。タクヤとさくらを演じた二人はこの時期この瞬間にしかないまぶしい輝きを放ち、それを見事に捉えたカメラも素晴らしく、二人の今後もぜひ追ってみたくなるだろう。インディーズ系日本映画マニアであれば垂涎の池松壮亮と若葉竜也の組み合わせも、この二人にしか創り出せない絶妙な空気感を醸し、思わずニンマリしてしまうはずだ。

©2024「ぼくのお日さま」製作委員会/COMME DES CINÉMAS

 本作を観て感じる今までにはない新しさは、吃音や同性愛の描き方だ。これらの要素については十分に取材やリサーチを重ねた上で、その在り方に特別な意味合いを込めたり記号的に描くことはせずに、違和感無く普通の人としてごく自然に存在するように感じる演出がなされている。観客にも彼らは他の登場人物たちと溶け込んでいるように見えるだろう。しかし劇中の登場人物にとっては、逆にその存在に対してそれぞれ違う感じ方があり(それがリアルな日常だろう)、その違いが感情を揺り動かし物語を駆動させる。こうして観客の胸に歯痒さを残す演出のサジ加減にも唸らされる。

 本作はハンバートハンバートの楽曲「ぼくのお日さま」が基になった作品で、音楽が重要な役割を果たしている。「月の光」はテーマ曲のように何度も登場し、タクヤや荒川は鼻歌で歌い、劇伴がいつの間にかその旋律を奏でたりもする。劇伴はハンバートハンバートの佐藤良成が手掛け、オーガニックな響きのピアノやギターと透明感のあるビブラフォンやチェレスタの音が、雪景色に完璧にマッチしている。またカーステレオで流すヴェルヴェット・アンダーグラウンド風のロックな2曲も、実は佐藤のオリジナル曲で驚かされる(ちなみにタクヤが選曲するのはゾンビーズの曲)。

 そしてエンドロールで流れるハンバートハンバートの「ぼくのお日さま」も最高だ。歌詞を全て文字として表示する斬新なスタイルで(洋画で字幕が出ることはあるが)、その出し方もグラフィック的に本作と合ったデザインで楽しくなってくる。歌詞の内容も当然本作の内容とリンクはするが具体的な説明ではなく、本編にちょっとだけ残ったモヤモヤした気持ちを解消してくれて、“言えなかった記憶”が浄化された気分だ。そして最後にはなんとも幸せな気持ちで包まれていることに、誰もが気付くだろう。



『ナミビアの砂漠』 9月6日(金)TOHOシネマズ 日比谷ほか全国ロードショー
配給:ハピネットファントム・スタジオ ©2024「ナミビアの砂漠」製作委員会

 『ナミビアの砂漠』は、山中瑶子監督の『あみこ』(2017)に続く本格的な長編映画第一作で、現在映画にもテレビにも引く手数多で最注目の河合優実が主演を務めている。山中が19歳の時に自主制作した66分の中編『あみこ』は、史上最年少で招待されたベルリン国際映画祭をはじめ多くの国際映画祭で正式上映され、世界がその新たな才能を発見し、日本では劇場公開されたポレポレ東中野でレイトショーの動員記録を更新している。河合優実はまだ高校3年の時に『あみこ』を観て衝撃を受け、山中に「女優になります。いつか出演したいです」という手紙を渡しており、その願いが実現されのが『ナミビアの砂漠』なのだ。

 美容脱毛サロンで働く21歳のカナ(河合優実)は、仕事はそつなくこなすが、プライベートは自由奔放で忖度無しのわがままし放題、不器用な嘘つき女だ。同棲相手のホンダ(寛一郎)は家事は完璧、いつでも寛大で優しい生真面目男だ。しかしカナはそんなホンダが退屈になってきて、ちょっとミステリアスで危険な香りのする映像クリエイターのハヤシ(金子大地)に乗り換え、新たな生活を始める。初めは幸せな日々を過ごしていたが、次第に二人のペースはずれ始め、心もすれ違うようになってくる。そしてある日、二人は大喧嘩をしてカナは家を飛び出し、階段から落ちて大怪我をしてしまう。カナは車椅子生活を余儀なくされ、やがて自分の中で何かが弾けるのを感じた…。

©2024「ナミビアの砂漠」製作委員会

 もう、これは河合優実の独壇場だ。これまでも映画やドラマに限らず、作品ごとに全く違う役柄を完璧に演じ、その度に観る者を驚かせて来た。しかし本作では、山中の突出したキャラ設定とまさかの物語の展開が相俟った躍動する身体の存在感と、その裏で見せる心の襞まで感じさせる表情が圧巻で、現時点の代表作を更新したことは誰の目にも明らかだろう。そしてそのリアルさは、手持ちカメラによる手ぶれとズームを多用し、ドキュメンタリータッチで生々しくカナに迫った撮影によるところも大きいだろう。

 街並みの遠景からズームアップし、カナが歩く姿を捉える登場シーンでは、口は半開きで手提げバッグをブラつかせ、大股で歩く姿が異様なオーラを放つ。呼び出された友達の話を聞く喫茶店では、話に飽きてくると他の席の会話が気になって目が泳ぐ表情がヤバ過ぎる。その後もほぼ全ての場面に出ずっぱり。二人の男を相手に傍若無人に振る舞う姿は荒々しく暴力的、投げかける言葉も鋭利なナイフのような切れ味だ。欲望だけが肥大化し、人の心も経済も政治も荒廃し、同調圧力も蔓延る砂漠のように生き辛い東京。その片隅で暮らすカナにとって、男は好きで一緒にいたいのではなく、やり場のない感情を持て余す孤独と寂寞感、そして焦燥感を紛らわす存在でしかないのだろう。

 カナが渡り歩く二人の男は性格は真逆ながら、最初は二人ともカナを丁寧に扱っているが、次第に化けの皮が剥がれ、身勝手な勘違いやカナを支配しようとする欲望が顕になってくる。この辺りからは、山中監督の思惑が少しずつ見えてくる。特にハヤシのかつての過ちをカナが告発する鬼気迫る場面は、数年前に演劇界隈で実際に起こったセクハラパワハラ事件に、山中が被害女性の友人として関わったことで感じた様々なことが基になっているのではないだろうか。もちろん実際の事件とは状況設定を変えているが、それ程カナの言葉にはリアルで悲痛な心の叫びと、重たい願いが込められているように思う。

©2024「ナミビアの砂漠」製作委員会

 それも含め、本作は女性から世の男への宣戦布告なのではないだろうか。カナは嘔吐して、排泄して、セックスして、男を殴って蹴って、裸を晒す。山中は女性に対する男の都合のいいイメージをヒラリと裏返し、中指を立てながらこれらの行為を見せ付けていると思うのは、筆者だけだろうか? 同時に終盤では、精神の病に罹ったカナが心理カウンセラー(治療で使う砂の箱庭は砂漠のようだ)の女性とマンションの隣人の女性(この役に唐田えりかをキャスティングしたこと自体に意味があるだろう)によって、心の安定と癒しを得る。その意味で本作は精神的なシスターフッド映画とも言えるだろう。またカナとハヤシの喧嘩は終盤になってプロレスのように様式化し、その時の言い合いもテンポのいい漫才のようで思わず笑ってしまう。そして二人の主観がぶつかり合う喧嘩も、慣れてしまえば第三者目線の俯瞰で見えて来る。それを映像で表現したあまりに斬新で唐突すぎる演出には、もう(いい意味で)唖然とするしかない。

 時折流れる心をザラつかせるエッジの効いたエレクトリック・サウンドの劇伴は、渡邊琢磨によるものだ。ちなみにタイトルのナミビアを調べてみると、アフリカ大陸の一番下、南アフリカ共和国の左上に位置する国で、海岸沿いにナミブ砂漠が広がっている。そしてナミブとは現地の言葉で「何もない」という意味だ(Wikipedia調べ)。本作は今年のカンヌ国際映画祭で、国際映画批評家連盟賞を受賞している。

(ラティーナ2024年9月)


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