見出し画像

[2025.1]【映画評】『アンデッド/愛しき者の不在』〜メランコリックな北欧ホラーに潜む人間存在の深遠なドラマ

『アンデッド/愛しき者の不在』
メランコリックな北欧ホラーに潜む
人間存在の深遠なドラマ

※こちらの記事は、1月22日(水)からは、有料定期購読会員の方が読める記事になります。定期購読はこちらから。

文●あくつ 滋夫しげお(映画・音楽ライター)

『アンデッド/愛しき者の不在』
2025年1月17日(金)より、ヒューマントラストシネマ渋谷、新宿ピカデリーほか全国公開
配給:東京テアトル
©MortenBrun

 家を出て歩きだした初老の男を、カメラは異様に高い位置から捉える。しかしすぐに男から離れてその先に広がるオスロの街全体を、まるで(ビルの上に立ったブルーノ・ガンツのような)神の視線でゆっくりと舐めてゆく。そこに木々のざわめきや鳥の鳴き声が重なり、やがて別の建物に入ってゆく男を、印象的な構図の中で再び見つめる。何気ない曇天の情景からどことなく不穏な雰囲気が滲み出るこの映画の冒頭の描写に、本作が長編デビュー作というテア・ヴィスタンダル監督の才気を感じるとともに、物語のその先の展開に対する期待が大いに高まる。そしてこの居心地の悪い不安と期待は、序盤でこの街に起こるスピリチュアルな超常現象までじわじわと高まってゆく。

 タイトルの “アンデッド” とは、生ける屍のことだ。本作では原因不明の現象によって三人の死者が生き返るが、作品のスタイルはいわゆる “ゾンビもの” とは全く違い、目を背けたくなるような場面はあるものの、定番の血肉が飛び散るような殺戮はほぼ描かれない。また生き返った三人の家族やパートナーが交差することはなく、目の前に再び現れる愛する者と対峙した時に、それぞれが示す異なった反応に観客は思いを馳せることになる。そもそも三人は息を吹き返したもののほとんど動かず、何も話さないので感情をはっきり読み取ることが出来ない。そこには当然喜びもあるが、同時に戸惑いや葛藤も生まれ、本作はそんな異様な事態に直面した人々の心の動きを追ってゆく。

© 2024 Einar Film, Film i Väst, Zentropa Sweden, Filmiki Athens, E.R.T. S.A.
© 2024 Einar Film, Film i Väst, Zentropa Sweden, Filmiki Athens, E.R.T. S.A.

 この段階では観客も困惑し、「これは一体何なんだ?」「この先どうなる?」とドキドキしながら見守るしかないが、三人を様々なメタファーとして見ることも出来るだろう。例えば生き返ったものの感情を示さない状態は、近年多くのSF作品で見られる(現実世界でも既に存在する)AIで生成された者。言葉も発せず虚ろに佇むだけの状態は、植物状態で寝たきりの者。また家族なのに会うことが出来ない状況は、コロナ禍の感染入院者を思い出させる。それらを医療制度や安楽死など様々な社会問題として捉えれば、状況設定は寓話的SFだが、極めてリアルな現実社会が背景にあり、物語はファンタジーであると同時に、生と死を見つめ命について問いかけるシリアスな人間ドラマでもあるのだ。そしてその根底にある自然の摂理と、行き過ぎた文明との関係性についても考えさせられるだろう。

『アンデッド/愛しき者の不在』
2025年1月17日(金)より、ヒューマントラストシネマ渋谷、新宿ピカデリーほか全国公開
配給:東京テアトル
© 2024 Einar Film, Film i Väst, Zentropa Sweden, Filmiki Athens, E.R.T. S.A.

 しかしそんな考察も、終盤で三人に訪れる突然の展開によって断ち切られ、家族が三人にどう対処するかを、呆然としながら見つめることしか出来なくなるはずだ。それは本作のエンターテインメント作品としての秀逸さだが、最後には再び人間の深遠な内面世界の淵に立たされ、その闇の奥までも覗き込むことになるに違いない。

© 2024 Einar Film, Film i Väst, Zentropa Sweden, Filmiki Athens, E.R.T. S.A.
©AgneteBrun 

 本作が放つ、言葉では言い表せない “得体の知れなさ” は、以前にも感じたことがある。それは原作者であるヨン・アイヴィデ・リンドクヴィストが脚本も手掛けた、別原作の映画化作品『ボーダー 二つの世界』(19)と『ぼくのエリ200歳の少女』(08)だが(本作と『ボーダー 二つの世界』は監督との共同脚本)、この三本はそれぞれ違う監督による作品だ。にも関わらず共通する得体の知れなさを湛えているのは、豊かなイマジネーションを喚起する原作~脚本の強さであり、それを映像化することに力を注いた各監督の見事な演出力の証左でもあるだろう。実際に本作のヴィスタンダル監督は、「映画も小説と同じようにもの悲しくリアルなものに仕上げたいと考えた」と語っている。

 セリフが極端に少ない本作では、映像が大きく物を言う。まるで生き物のようなカメラのゆっくりとした動きと35mmフィルムが醸し出す、深い質感と詩的で耽美的な美しさは、アンデッドたちの人間であって人間ではない曖昧な不気味さを、ギリギリの信憑性を感じさせる絶妙なバランスで炙り出す。音も重要で、日常の生活音がどこか意味ありげに聞こえて来る。カラカラと音を立てる扇風機やチューニングの狂ったラジオの雑音、無闇に吠え続ける大型犬、耳障りな音を立てるドアや電話の呼び出し音。妙に研ぎ澄まされた音が、劇場の暗闇に響き渡る。スコアも環境音と呼応するように、メロディーよりも抽象的な音の折り重なりが混じり合い、静謐で不穏な音響がトータルで美しくデザインされている。

 逆に挿入歌には、登場人物たちの心情が色濃くストレートに表現されている。孫を亡くした祖父の孤独な悲しみは宗教歌の合唱で厳かに表され、母はその絶望をブラジルの派手なリズムの喧騒の中に紛らわせる。そして残された老婦人の、パートナーの老婦人への想いを託した曲「行かないで(Ne Me Quitte Pas)」は、原曲のジャック・ブレルではなく女性のニーナ・シモンが歌っていることも含め、手を取り合い踊っても心が通わない寂寞感に強く胸が締め付けられる。

 そしてアンデッドたちの存在が違和感なくリアルなものとして感じられるのは、対峙する俳優陣の演技による部分も大きいだろう。母を演じたレナーテ・レインスヴェは、『わたしは最悪。』(21)でカンヌ国際映画祭の主演女優賞を受賞。祖父を演じたビヨーン・スンクェストと残された老婦人を演じたベンテ・ボシュンは、共にノルウェー映画界で最も栄誉あるノルウェー国際映画祭アマンダ賞を受賞した、ノルウェーのアイコン的名優だ。無言で語るその佇まいと繊細な表情によって、思いもよらない特異な出来事に直面した者が抱える喪失感とやるせない葛藤が、より一層切なく伝わるはずだ。

 本作はノルウェー国際映画祭アマンダ賞で4冠を達成したほか、サンダンス映画祭をはじめ多くの国際映画祭で数々の受賞とノミネートを果たしている。


(ラティーナ2025年1月)


ここから先は

0字

このマガジンを購読すると、世界の音楽情報誌「ラティーナ」が新たに発信する特集記事や連載記事に全てアクセスできます。「ラティーナ」の過去のアーカイブにもアクセス可能です。現在、2017年から2020年までの3.5年分のアーカイブのアップが完了しています。

「みんな違って、みんないい!」広い世界の多様な音楽を紹介してきた世界の音楽情報誌「ラティーナ」がweb版に生まれ変わります。 あなたの生活…

この記事が参加している募集