[2022.2] 特集上映『タル・ベーラ 伝説前夜』 ⎯ 独りスクリーンと対峙する至福の映画体験
劇場で観なくちゃ意味がない!
暗い闇の中、独りスクリーンと対峙する至福の映画体験。
文●圷 滋夫(映画・音楽ライター)
先日、日本映画製作者連盟が発表した2021年の映画興行収入は、2020年よりもわずかに回復したが、洋画に限って見ると過去最低の成績だった。しかもそれが興収全体の約2割でしかなく(つまり邦画が約8割)、興収ベスト10に入った洋画は10位の『ワイルド・スピード ジェットブレイク』のみという惨憺たる結果だ(ちなみに上位は日本のアニメ作品で占められている)。またヒット作とそうでない作品の差が極端に広がっているのも、あまり健全とは言えない傾向だろう。
さらにコロナ禍でNetflixや Amazon Primeなどの映像配信サブスクリプションの利用者が急増し、配信のみで劇場公開されない作品や、劇場公開しても申し訳程度でほとんど宣伝することなくその後すぐに(もしくは同時に)配信が始まってしまうという作品も増えている。例えばジェーン・カンピオン『パワー・オブ・ザ・ドッグ』やアダム・マッケイ『ドント・ルック・アップ』、ディズニーの『ラーヤと龍の王国』などの良質で評価の高い作品ですら、一般的にはほとんど印象に残っていないのではないだろうか。これは特に人間ドラマを深く描く派手さのないタイプの作品には、とても厳しい状況だろう。
そんな中で例えばクリストファー・ノーラン『TENET テネット』やドゥニ・ヴィルヌーヴ『DUNE / デューン 砂の惑星』など、映像的にも音響的にも劇場映えする撮影方法や音響システムを駆使した作品は、大きな話題を呼んでいた。そして先週末から始まったハンガリーの監督タル・ベーラによる日本初公開の初期長編作品を特集上映する『タル・ベーラ 伝説前夜』も、IMAXや特別な音響システムを使っている訳ではないにもかかわらず、劇場で観なければその魅力が半減する、つまり絶対に映画館で観るべき企画なのだ。
特集タイトルの “伝説” とは1994年公開の『サタンタンゴ』(日本では2019年に公開)のことで、上映時間が7時間18分という超大作で多くの著名な映画監督を含む熱狂的な支持者を世界中に持つ作品だ。そして今回の特集は『サタンタンゴ』以前に撮られたデビュー作を含む3本の長編作品を上映し、いかにしてこの “伝説” が生まれたかの足跡を辿る企画で、古い順に3本とも鑑賞すればその変遷を実感出来るはずだ。また “伝説” の『サタンタンゴ』と今のところ(と言いたい)引退作である『ニーチェの馬』(2011)も特別に上映される。
タル・ベーラ作品の特徴としては、光と影のコントラストとその間の豊かなグラデーションが際立つモノクロームの映像、ゆっくりと数分間をかけて舐めるように移動する長回しのカメラ、フィックスのカメラで捉えられた完璧な構図、被写体を遠くから捉える極端なロングショット、それらの被写体となるザラついた対象物はまるでポロックやロスコの抽象画で人物はレンブラントの肖像画のようにも見える絵画的なアプローチ、そして通奏低音のように常に鳴り続け不安を煽る雨や風、機械などのノイジーな持続音と、酒場で奏でられる哀愁漂う音楽と人々の狂騒的なダンスがある。
これらの映像と音響(環境音と音楽)が愉悦的に一つとなり、登場人物の感情が重なり三位一体となった瞬間、そこに物語や言葉を超えたゾクゾクするような映画的興奮が訪れる。それは登場人物の心象風景(そのほとんどが孤独や寂寞感だ)を論理的に理解するのではなく、五感で感じ直接心に伝わるような感覚だ。特に特別上映される『ニーチェの馬』に至っては物語性もほとんど排除され、現代美術の抽象的な映像作品という印象だ。生きる意味とその先の死について考えさせながら、同時に「映画とは何か?」という問いまでも投げかけ、本作で引退を決意したことも納得できる(したくない)エクストリームな作品だ。
デビュー作の『ファミリー・ネスト』(1977)は、ハンガリーの首都ブダペストで共産主義政権下の過酷な住宅事情を背景に、夫の狭い実家に同居しながら男性優位主義者で強権的な義父の言動や、怠惰で融通の利かない官僚主義に苦悩する若い妻の姿が描かれる。本作で示した社会の欺瞞を厳しく告発しながら人間の本質を炙り出す姿勢は、その後の作品にも貫かれている。またここ数年で多くの映画やドラマが取り上げているトキシック・マスキュリニティ(有害な男らしさ)の問題にも通じる現代的なテーマを、まだ22歳の青年があの時代のあの状況下で取り上げたことの先見性に驚かされる。そして事実を基に素人を演者として使うドキュメンタリー・タッチのスタイルと社会に対する激しい怒りは、むしろケン・ローチ作品を思い起こさせる。
『アウトサイダー』(1981)は看護師として働きながら、夜はプロの音楽家を夢見て酒場やパーティーでヴァイオリンを弾いている男が主人公のカラー作品だ。男は親に捨てられ施設で育ち、物腰は柔らかいが優柔不断でいい加減な生活を送っている。映画は様々な問題に直面しながら面倒を先延ばしにし、どんどん悪い方向に流されて行く男の哀愁を淡々と描いている。『ファミリー・ネスト』同様に本作もクローズアップと手持ちカメラを多用したドキュメンタリー・タッチの即興的な演出で、その後の作品の特徴はまだ目立ってはいないが、本作ではより人間そのものにフォーカスしてその弱さと狡さをえぐり出す。また主人公が音楽家だけに、様々な演奏シーンが出てくるのもその後の作品の特徴に連なり、ハンガリーの民族楽器ツィンバロンを使ったロマ音楽も楽しめる。
そして『ダムネーション/天罰』(1988)は、いきなり機械のノイジーな持続音が耳鳴りのように鈍く聞こえてくると、石炭を運ぶ滑車をロングショットで捉えたカメラが少しずつゆっくりと動き始め、やがて室内を映し出し黒い影が人の後ろ姿になった時、思わず「これだ!」と心の中でつぶやいた。不安を掻き立て耳に残る音響も、意表を突く映像的なルックも、これぞまさにタル・ベーラ!と言うべきスタイルだ。これは脚本のクラスナホルカイ・ラースロー、撮影のメドヴィジ・ガーボル、音楽のヴィーグ・ミハーイという、その後のタル・ベーラ作品の中核を成すスタッフが初めて一堂に会したということが大きいだろう。
タル・ベーラ作品の撮影や音楽の特徴については前述したが、脚本については物語の展開を極限まで削ぎ落とし、その代わりに台詞には詩的で哲学的な言葉が綴られてイメージが広がってゆく。本作は酒場で歌う女と不倫関係にある男が、店のマスターから依頼された怪しいブツの運び屋の仕事を、その女と夫に持ちかけるというシンプルな話だ。犯罪の匂いがするタル・ベーラ流のフィルム・ノワールで、女は男にとってのファム・ファタールだ。そして底なし沼に堕ちてゆく男の悲しい末路の向こうから、人間の孤独と打算が切なく浮かび上がってくるのだ。
ここでも訥々と奏でられる哀愁に満ちたアコーディオンの響きが男のザワつく心を鎮め、バンドの軽快な音に人々は永遠であるかのように夜通し踊り続ける。それはまるでトルコの旋回舞踊やパキスタンのカッワーリーの踊りのような、宗教儀式的な趣も感じられる。そう、ダンスは地上の束縛から人間を解放し、繰り返すスイングとターンによって宙へと飛び立たせるのだ。そして度々挿入される大地に激しく降り注ぐ雨は、人間が抱える罪と不条理な感情を洗い流してくれるかのようだ。
こんな他に類を見ない真に特異な作家映画を、家のテレビやPCの小さな画面で味わい尽くそうと思うのは全く無理な話だろう(そもそもDVDがあるかも配信されるかも知らないが)。暗い場面では画面に自分の顔や部屋の様子が映り込み、スマホの様々な通知が鳴り、家人から無神経に話しかけられ、いきなり宅配便の呼び鈴が響き渡り、可愛いニャンコやワンコにも邪魔される。そんなあらゆる障害を全て避けたとしても、没入感と集中力が全然違うだろう。やはりタル・ベーラは映画館に足を運んで独り席に座り、漆黒の闇の中でスクリーンと対峙してこそ、至福の映画体験を得られるのだ。
(ラティーナ2022年2月)
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