【追悼】 アストラッド・ジルベルト ⎯ 「イパネマの娘」の声の生涯 ⎯
アストラッド・ジルベルト(Astrud Gilberto|1940年3月29日 - 2023年6月5日)の訃報を、下記の記事で、速報でお伝えしました。
その中で、彼女の孫娘ソフィア・ジルベルト(Sofia Gilberto)のInstagramでの投稿が第一報になったと紹介しました。
その後、亡くなった状況についてわかってきました。
こちらは、astrudgilbertoofc というアカウント(熱心なファンが運営するアストラッドに関する情報を発信してきたアカウント)ですが、ブラジルのメディアが、遺族から確認した情報を記しています。
遺族からの情報によると、住んでいた米国フィラデルフィアの自宅で、心不全で亡くなり、最期の時は穏やかだったそうです。
残された息子2人のうち、1人は、1960年に生まれのジョアン・マルセロ ─ ジョアン・ジルベルトとの間に産まれた子どもです。
アストラッドとジョアンは、ナラ・レオンの宅で知り合いました。アストラッドの生涯を簡単に振り返ります。
ジョアン・ジルベルトと結婚し、アストラッド・ジルベルト(Astrud Gilberto)という名前になる Astrud Evangelina Weinert(ブラジルのポルトガル語の発音に近づけてカタカナ書きすると「アストルーヂ・エヴァンジェリーナ・ヴェイネルチ」)は、1940年3月29日に、ブラジル北東部のサルヴァドールで生まれました。父親はドイツ生まれの言語学者で、大学教授でした。まだ幼い頃に、家族で、リオデジャネイロに引っ越し、リオで育ちました。常に音楽に関心を持っていたアストラッドは、ナラ・レオンを中心としたリオのボサノヴァ・コミュニティーに出入りするようになり、ジョアン・ジルベルトと結婚。アストラッド・ジルベルトと、ジョアンの姓を名乗るようになりました。
この頃、アストラッドはアマチュアながら演奏活動をしていて、夫のジョアン・ジルベルトの他、ナラ・レオン、ジョニー・アルフ、エルザ・ソアレスなどのアーティストとともに演奏しました。そのうちの1つが、1960年にリオデジャネイロ連邦大学(UFRJ)建築学部の円形劇場で行われた「A noite do amor do sorriso da flor」というコンサートへの出演で、この時の演奏が、現在ではYouTubeで聴くことができます。「イパネマの娘」やそれ以降の歌声と違う堂々とした歌い方です。ここからどうやって “風のように” 軽く歌う歌唱に変化したのでしょうか。
1963年、ジョアンとニューヨークに来ていたアストラッドは、ジョアン・ジルベルトとサックス奏者スタン・ゲッツのアルバム『ゲッツ/ジルベルト』に参加。同アルバムのアレンジは、トム・ジョビンでした。
アストラッドは、この録音で、「イパネマの娘」と「コルコヴァード」を英語で歌いました。ジョアンのポルトガル語とアストラッドの英語が入ったデュエットの曲だった「イパネマの娘」を、プロデューサーの独断で、ジョアンのポルトガル語の部分をカット。同曲は、シングルカットされ、大ヒットしました。「そよ風」のようにクールな曲は、その年のグラミー賞のベスト・ソングに輝き、『ビルボード』誌のシングル・チャートの5位まで上がりました。
1965年のグラミー賞で、「イパネマの娘」の人気が牽引し、『ゲッツ/ジルベルト』は、年間最優秀アルバム賞と年間最優秀レコード賞を受賞しました。アストラッドは、新人部門と女性歌手部門にノミネートされましたが、受賞には至りませんでした。
「イパネマの娘」は、1960年代を代表する歌の一つとなり、全世界で500万枚以上のセールスを記録しました。「イパネマの娘」は、ビートルズの「Yesterday」に次いで、ポピュラー音楽で2番目に多く録音された曲となりました。
さて、『ゲッツ/ジルベルト』で、アストラッドが歌ったのはどういう経緯だったのでしょうか。レコード会社とプロデューサーのクリード・テイラーが言っているのは、ジョアンが英語の歌が歌えないから、ただ夫について来たアストラッドに、英語で歌ってもらったというストーリーです。スタン・ゲッツが言い張ったという説もあります。
スタン・ゲッツは、イギリスのジャズ誌への1964年のインタビューでこのように話ています。
しかし、著名なボサノヴァ研究家、ルイ・カストロの『ボサノヴァの歴史』では、「イパネマの娘」を英語で歌いたいと主張したのはアストラッド・ジルベルト自身だったと記されています。
アストラッドは、この件に関して、1982年のインタビューでこのように発言しています。
また、アストラッドの息子のマルセロ・ジルベルトも「父のジョアンは、彼女の発見について語られる嘘に断固として反対していました」と話しています。
真実はわかりませんが、少なくともアストラッドは、歌手志望で、人前で歌ったこともあったということは、先ほど紹介した1960年のコンサート音源ではっきりしています。
「イパネマの娘 」は、1962年、トム・ジョビンとヴィニシウス・ヂ・モライスの2人が、イパネマビーチ近くのバー「ヴェローゾ」を通った10代の少女エロイーザ・ピニェイロ(Heloísa Pinheiro)への思いを込めて作った曲ですが、『アントニオ・カルロス・ジョビン ボサノヴァを創った男』(著 エレーナ・ジョビン/訳 国安真奈 )には、「イパネマの娘」の “英語バージョン” 誕生の裏話が記されています。
この話によると、トムは、「イパネマの娘」の英語バージョンのデモ・テープを作った際に、アストラッドに歌ってもらっていて、当然、プロデューサーのクリード・テイラーも、事前にデモ・テープを聴いていたと考えられます。
1963年のヨーロッパ・ツアー中に、ジョアンとアストラッドの結婚が破綻しました。ブラジルのマスコミは結婚生活の破綻をアストラッドがスタン・ゲッツと浮気したせいだと報じました。しかし、浮気をしていたのは実際はジョアンではないかという話もあります。当時、美術史の学生で、ヨーロッパに留学していたミウシャと不倫していたという説です。
ミウシャは、1960年から、美術史を学ぶために、パリに留学していました。長期休暇で旅していたイタリア、ローマで、チリ人のシンガーソングライターのビオレータ・パラ(Violeta Parra)と知り合い、ビオレータ・パラを介して、ジョアン・ジルベルトと知り合いました(※ジョアンとミウシャは後に結婚し、一人娘の歌手ベベウ・ジルベルトが生まれました)。
1964年に、ジョアンとアストラッドは離婚しています。同年、アストラッドは、スタン・ゲッツのバンドの一員として、アメリカを回るツアーに参加します。離婚して大変な時期に、小さな子どもを抱えたシングルマザーとしてこのツアーを回ったことを、経済的な理由で仕方がなかったとはいえ、アストラッドは、後に後悔しています。
ブラジルのマスコミは、スタン・ゲッツがアストラッド・ジルベルトと不倫しているという噂を、彼女が「拷問」と感じていたツアー中に大々的に報じていました。スタン・ゲッツは多くの女性から、不当な扱いや暴力について、暴露されています。
「イパネマの娘」の録音の一件で不仲になったのか、ジョアンの不倫があったのか、或いは、本人は否定していますが、スタン・ゲッツとアストラッドの秘めたる恋があったのか…離婚の原因についても真実はわかりません。
スタン・ゲッツのバンドを離れた後、アストラッドは Verve で自分のアルバムを制作する機会を得ました。1965年から1971年にかけて、彼女は Verve で 8枚のソロアルバムを制作しました(※日本向けのアルバムも含めると9枚)。ここからは、アストラッド・ジルベルトが生涯で残したアルバムをスタジオ・アルバムを中心に15作紹介します。ボサノヴァだけに拘らない多様な音楽を録音し、「甘く、クールで、舌足らずにも感じられる歌声」とそれを活かした巧みなアレンジで、ポップスシンガーとしての地位を築きました。
【DISCOGRAPHY】
The Astrud Gilberto Album (Verve, 1965)
「イパネマの娘」の大ヒットで一躍世界的スターとなったアストラッドの1stアルバム、邦題は『おいしい水』。プロデュースは『ゲッツ/ジルベルト』と同じくクリード・テイラー。取り上げた11曲中10曲がトム・ジョビンの楽曲で、ジョビン自身も本作の録音にギターで参加しています。編曲はマーティ・ペイチ(Marty Paich)。ビルボード・チャートで最高位41位を記録しました。 2017年に、NPRが発表した「女性が作った偉大なアルバム150」では、73位に選ばれました。
当時24歳。デビューしたての初々しくアマチュアリズムたっぷりの歌声で、英語とポルトガル語をうまく使い分けています。歌いすぎない歌、ジョビンのギター、ドナートのピアノ、マーティ・ベイチのセンスのいいストリングスが交錯するイージー・リスニングなサウンドの方向性は、その後の全世界に飛び火したボサノヴァという音楽形式の雛形となりました。
The Shadow of Your Smile (Verve, 1965)
アストラッド・ジルベルトの2ndアルバム、プロデュースはクリード・テイラー。国内盤は『いそしぎ』というタイトルで発売されました。クラウス・オーガマン(4曲)、ドン・セベスキー(3曲)という当時のVerveを代表するオーケストレーションを贅沢に使い(ジョアン・ドナートも2曲をアレンジ)、本作以降、ポピュラー歌手の歌う米国産ボサノヴァの定番曲となった「The Shadow of Your Smile(いそしぎ)」「Fly Me to the Moon」「Day by Day」等のスタンダードのボサノヴァ化に成功しました。本作で「ボサノヴァの女王」の座を不動のものにしました。ビルボード・チャートで最高66位を記録。
A Certain Smile, a Certain Sadness with Walter Wanderley (Verve, 1966)
ブラジル出身のオルガン奏者、ワルター・ワンダレイをフィーチャーした1966年作。録音は1966年9月。軽快な演奏をバックに、アストラッドが愛らしい歌声を聴かせます。ニューヨーク録音で、プロデュースはクリード・テイラー。クレジットにはないけれど、Tr2、Tr7、Tr13にガットギターが録音されていて、ジョアン・ジルベルトの演奏なのではないかという説があります(或いは、マルコス・ヴァーリか)。アメリカにおけるボサノヴァ・ブームの絶頂期にリリースされました。
Look to the Rainbow (Verve, 1966)
11曲中9曲をギル・エヴァンスがアレンジを手がけたアストラッド・ジルベルトのソロ4作目。残りの2曲(Tr9、Tr10)のアレンジはアル・コーンが担当しています。プロデュースはクリード・テイラー。アストラッドのアルバムを、ギル・エヴァンスがアレンジするという面白さはバーデン・パウエルとヴィニシウス・ヂ・モライス作の1曲目「Berimbau」から発揮されています。映画『シェルブールの雨傘』のテーマ曲でミシェル・ルグラン作「I Will Wait For You」の人気も高いです。
Beach Samba (Verve, 1967)
『死ぬ前に聴くべき1001枚のアルバム(1001 Albums You Must Hear Before You Die)』という本にも選ばれたアルバム。「My Foolish Heart」、「Misty Roses」、「I had the Craziest Dream」等の米国ジャズ/ポップスの楽曲で印象を残しながらも、12曲中7曲は、ルイス・ボンファ、シコ・ブアルキ、エウミール・デオダート、マルコス・ヴァーリらのブラジル人作家の作品を取り上げています。ドン・セベスキーとエウミール・デオダートによる編曲も、ソフトロック/イージーリスニング的なアルバムの統一感をしっかり作り上げています。トゥーツ・シールマンスもハーモニカとギターで、がっつり参加しています。ザ・ラヴィン・スプーンフル(The Lovin' Spoonful)の「You Didn't Have to Be So Nice」のカバーでは6歳の息子マルセロとデュエットしていて、その歌声も可愛らしいです。パレード色たっぷりのシコの「Parade(A Banda)」も、アルバムの中で異色ながら、いいアクセントになっています。プロデュースはクリード・テイラー。
Windy (Verve, 1968)
アルバム・タイトルは、カリフォルニアのソフトロックバンド「アソシエーション」のヒット曲「ウィンディ」から。同バンドの「かなわぬ恋」も取り上げていて、当時のウエスト・コーストの空気を纏っているアルバムです。かといって既発ヒット曲で固めているわけはなく、ルイス・ボンファ(Tr1)、マルコス・ヴァーリ(Tr2)など、ブラジル音楽の作家の作品にも目配せできています。エウミール・デオダートやドン・セベスキーによる編曲も優美。アストラッドのベスト作の1つに数える人も少なくありません。
本作でも、ジョアン・ジルベルトとの間に生まれた息子マルセロ・ジルベルトと、Tr6「The Bare Necessities」でデュエットしています。プロデュースはPete Spargo。
September 17, 1969 (Verve, 1969)
イギリスでは『Holiday』というタイトルでリリースされました。シカゴ(「ビギニングス」)、ビートルズ(「ヒア・ゼア・アンド・エヴリホエア」)、ドアーズ(「ハートに火をつけて」)などロックやポップスを、アグレッシブで洗練されたアレンジで録音したアルバム。ニューヨーク録音で、当時のニューヨークの雰囲気も纏っているようです。ジャケットもマンハッタンで撮影した写真。
アレンジは、アル・ゴルゴニ(Albert Gorgoni)、プロデュースはブルックス・アーサー(Brooks Arthur)。長年入手困難な状況が続いていましたが、2021年に日本でCD化され、今は日本では入手しやすいようです。
I Haven't Got Anything Better to Do (Verve, 1969)
ブラジル人作家による楽曲は、Tr5のThe Sea Is My Soil (I Remember When)(ドリ・カイミとネルソン・モッタ)のみと、AOR〜ソフトロック路線のアルバム。バート・バカラックやジミー・ウェッブ、ニルソンの楽曲を、親密な雰囲気で奏でます。インタビューで本人も自信作と答えていたとか。アレンジはアル・ゴルゴニで、プロデュースはブルックス・アーサーという、前作と同じ布陣。
Gilberto Golden Japanese Album (Verve, 1969)
渡辺貞夫の曲を日本語で歌っている他、ボサノヴァの名曲・定番曲を日本語で5曲歌っています。日本向けのアルバム。アストラッドの父フリッツ・ヴィルヘルム・ワイナート(Fritz Wilhelm Weinert)はドイツ生まれのドイツ人で、語学教授でした。アストラッドは、ポルトガル語と英語の他にも、フランス語、イタリア語、スペイン語、日本語に堪能でした。
Gilberto with Turrentine (CTI, 1971)
プロデューサーのクリード・テイラーと再会し、クリードのレーベル「CTI」からリリースしたアルバムで、米国のテナー・サックス奏者のスタンリー・タレンタインをフィーチャーしています。アレンジは、エウミール・デオダートで、全体に穏やかな時間が流れるアルバム。スタンリーのテナーの音色は、探さないと聴こえてこないくらい少ない…?!? プロデュースはクリード・テイラー。
Now (Perception, 1972)
ニューヨークのマイナー・レーベル Perceptionからリリースされたセルフ・プロデュース作。世界的にはあまり評判が良くないようですが、パーカッションにアイアート・モレイラ、アレンジと鍵盤でエウミール・デオダートが参加するなどラテン・フレイヴァーのグルーヴィなポップス作品として、日本では愛好する人もいる1作。ジョルジ・ベンジョール作のTr6「Take it Easy My Brother Charlie」を、このアルバムの影響からか、カヒミ・カリィもカバーしました。Tr3「Baião」では、ブラジルの北東部が起源の音楽「バイアォン」を取り上げています。
That Girl from Ipanema (Image, 1977)
サックス奏者のジェリー・マリガン、ギタリストのバーニー・ケッセル、トランペッターのチェット・ベイカーのジャズを愛して育ったアストラッド・ジルベルト。このアルバムのTr3「Far Away」で、彼女のアイドルだったチェット・ベイカーとの共演が叶い、「スリルがあり、夢が叶い、私のキャリアのハイライトだった」と語っています。「Far Away」は、アストラッドが作曲した曲でした(作詞はハル・シェーパー[Hal Shaper])。
また、Tr1ではディスコを意識したアレンジで「イパネマの娘」を再録音しています。アルバムのプロデュースは、アストラッドと、ヴィンセント・モンタナ Jr(Vincent Montana, Jr.)。
Plus with James Last (Polydor, 1986)
『Plus』は、ドイツを代表するポップス・オーケストラの指揮者ジェームス・ラストとのアルバム。1986年に英・ポリドールよりリリースされ、米国では1987年にVerveよりリリースされました。上記↑のジャケットは、Verveからリリース時に差し替えられたもので、オリジナルのジャケットには、アストラッドだけでなくジェームス・ラストも写っています。
トム・ジョビンの息子、パウロ・ジョビンが2曲でゲストVoで参加しています。そのパウロは、2022年11月4日に72歳で他界しています。もう1人のゲストVoのロン・ラスト(Ron Last)は、ジェームス・ラストの息子。
Astrud Gilberto + George Michael 「Desafinado」
1986年の『Plus』から『Temperance』まで、11年空いていますが、『Temperance』で音楽活動に復帰する前に、アストラッドに声をかけた人物がいました。「ワム!」を解散し、ソロとして活躍していたジョージ・マイケルでした。『Plus』を聴いて気に入ったジョージ・マイケルが、エイズ研究のためのチャリティー・アルバム『Red Hot + Rio』の参加のためにアストラッドに声をかけました。ロンドンでの録音で、アストラッドとジョージ・マイケルは、「Desafinado」をデュエットし、2人はその出来栄えに満足しました。マイケルのキーに合わせ、アストラッドには高すぎるキーでしたが、美しい録音を残しました。
Temperance (Pony, 1997)
ボサノヴァ生誕40周年を記念して、日本のポニーキャニオンが制作した1997年リリースのアルバム。アストラッドにとっては、11年ぶりのアルバムとなりました。Tr3では、ゲストVoに、マイケル・フランクスを迎えています。全11曲中、10曲で、アストラッドが、作詞か作曲、或いはその両方を担っています。プロデュースは、アストラッド・ジルベルトと、息子のマルセロ・ジルベルト。
日本を意識してのサービスなのか、アストラッドが作曲を手がけた曲のうちの1曲で、Tr8「Is It Yokohama Or Oklahoma?(横浜 or オクラホマ)」という曲もあります。
Jungle (Magya, 2002)
生前最後のアルバムとなった『Jungle』は、2001年の夏に録音され、2002年にリリースされました。アルバムのプロデュースはアストラッド自身で、大半の楽曲の作者もアストラッド。まずリリースされたアメリカでは、インディーズレーベルMagya Productionsから発売されましたが、アストラッドのオフィシャル・サイトでのみ販売されました。日本では、翌2003年に、コロムビアミュージックエンタテインメントがCDを発売。多彩な楽曲が収録されています。アルバムの最後を締めるのは、バート・バカラック&ハル・デヴィッドの「The Look of Love」。
音楽活動の引退
最後のアルバムとなった『Jungle』をリリースした2002年、International Latin Music Hall of Fame(ILMHF|国際ラテン音楽の殿堂|1999年から2003年まで開催されたラテン音楽に貢献したアーティストを讃えるために開催されたイベント)に指名され、殿堂入りを果たしました。
また、同年、1960年代はじめから始めた公の場での演奏について、無期限の休養を宣言しました。
その後は、2人目の夫のニコラス・ラソルサ(Nicholas LaSorsa)と暮らしたフィラデルフィアに残って、静かに暮らしていました(ニコラスと結婚したのは、1960年代後半で1980年代初頭には離婚していたと言われています)。引退後、アストラッドは、哲学や絵画に興味を持ち、動物虐待撲滅運動に取り組んでいました。
2008年11月、アストラッド・ジルベルトはラテン・レコード・アカデミーから「グラミー賞特別功労賞生涯業績賞(Grammy Lifetime Achievement Award)」を受賞。
日本との関係で言えば、先に紹介した日本語でも歌った日本向けアルバム『Gilberto Golden Japanese Album (Verve, 1969)』や、日本が企画を主導した『Temperance (Pony, 1997)』がある他、
ジャズ・トロンボーン奏者、向井滋春氏がNYでレコーディングしたアルバム『SO&SO(Better Days, 1983)』で3曲にVoで参加しています。その3曲(Tr1、Tr3、Tr8)はいずれも、アストラッドが作曲した曲でした。
来日公演の回数は正確には分かりませんが、1968年と1969年の来日公演時のパンフレットが存在します。
また、ブラジルでは、「米国のボサノヴァ」を良く思わない層があり、正当に評価されてきませんでした。彼らは「適切な時期に適切な場所にいた幸運な人だ」とアストラッドのことを表現していました。ブラジルはアストラッド・ジルベルトに背を向けてきたのでした。
アストラッドは後に、「ブラジルの記者から受けた厳しい批判や不当な皮肉にとても傷ついた」と答えています。1966年に、ただ一回ブラジルで行った単独公演は不評で、以降、アストラッドは、ブラジルで公演しませんでした。
多くのアーティストに影響を与えました。バーシア、シャーデー、シネイド・オコナー、パット・メセニー、マイケル・フランクス、スザンヌ・ヴェガらが、影響を受けたと公言しています。近年、意外なところでは、ビリー・アイリッシュが影響を受けたと公言しています。
バーシアは、アストラッド・ジルベルトをオマージュする「Astrud」というオリジナル曲を歌っていました。本稿の最後に、アストラッド・ジルベルトへの無限の愛情と敬意に溢れたこの曲を紹介します。
合掌。May her soul rest in peace :Ms. Astrud Gilberto (1941 - 2023)
(ラティーナ編集部)
(ラティーナ2023年6月)