[2023.3]【追悼】プグリエーセ・サウンドの守護神 コロールタンゴのロベルト・アルバレスが逝去!
文●本田 健治 texto por Kenji Honda
実は今、古いダリエンソの名曲を現代に蘇らせてくれたラ・フアン・ダリエンソ楽団の日本での全国公演を終え、一緒に台湾に来ている。台湾ではすでに3公演終わったところだが、日本の様にタンゴをあまり聴くことがない、見ることのない台湾というのに、彼らは驚くほどの喝采をあびている。公演後は彼らの姿を求めるファンの興奮はすさまじい ……。
翌日、そんな彼らとホテルを出発する準備をしているところに、アルバレスを知るダンサーのガスパル・ゴドイが蒼い顔をして飛んできた。「コロールタンゴのロベルト・アルバレスが昨夜亡くなったらしい!」と。一緒に台湾に来た楽団も歌手も、ダンサーも全員絶句だ。
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コロールタンゴと言えば、あのオスバルド・プグリエーセ・サウンドの真性の継承者たち。そのグループのマエストロが亡くなったという辛いニュース。プグリエーセ~コロールタンゴと、プグリエーセ・サウンドを直接引き継いできたアルバレスは、1978年に、マエストロのプグリエーセに直接呼ばれて楽団に加入して以来、25曲以上にわたってプグリエーセ楽団のアレンジを担当し、11年間プグリエーセ楽団のサウンドの真ん中で生きてきた。1989年、プグリエーセ楽団を正式に離れ、コロールタンゴを立ち上げてからもバンドネオン・ソリスト兼バンドマスターとして大活躍してきた巨匠だ。
コロールタンゴは、オスバルド・プグリエーセ人気が再び盛り上がった89年にオランダでデビューし、30回のコンサートをこなして正式に結成。そのときのメンバーは、ビクトル・ラバジェンに、あのマリアーノ・モーレスの日本公演にキーボード奏者として参加したウルグアイ人のフアン・カルロス・スニーニも加わって、アルバレスと3人のアレンジャーで出発した。バイオリン奏者は、アニバル・トロイロの第一バイオリンだったカルロス・ピチオーネや、ロベルト・シカレも加わっていた。当初のコロールタンゴは、メンバーも固まっていなくて、選抜メンバーで活動していた。
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「コロールタンゴ」という名前の権利を巡っては色々経緯がある。当初は、アルバレスの他、第一バイオリンを担当したフェルナンド・ロドリゲスと、アミルカル・トローサ(コントラバス奏者)の3人が中心でメンバーを集めたり音をまとめたりしていたが、やがてアミルカルは意見の相違から彼が去ることになり、どちらが名称を引き継ぐかという話になったが、元々名称の権利についてはトローサとロベルト・アルバレスが50%ずつ持っており、どちらがこの名称を引き続き使うかということで揉めた。弁護士を入れての騒動になったが、解決策は出なかった。それで一時期はアルバレスのとアミルカルの二つのコロール・タンゴが別々に活動するというおかしな事になっていた。ただ、アミルカルはディレクターでもアレンジャーでもなかったので、すでにコロールタンゴにいた数人の音楽家たちと一緒に活動しだしたが、結局はサウンドを求めて、アルバレスとのリハーサルを経て演奏を続けていたが、アミルカルは結局その重圧に耐えられなくなって辞めてしまった。
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後日、リディア・プグリエーセ夫人に聞いたところでは、最初からプグリエーセのサウンドを引き継ぐということで、コロールタンゴは実質的には当初からアルバレスのものだったそう。更に、当初から一緒に活動していたビクトル・ラバジェンは、活動を共にしてはいたが、ラバジェンはプグリエーセのスタイルとセステートタンゴの両方の良いところを混合したものを作りたかったのに対し、アルバレスは最初からプグリエーセのサウンドの継承を目指していた。それでラバジェンとも別れることになった。しかし、アルバレスにとっては、ラバジェンも本当にタンゴに対しては知識も演奏技術も高く、現在のタンゴ界でも本当に大事な仲間だといつも言っていた。ラバジェンという音楽家の、後輩にタンゴを教える姿を何度も見てきたが、確かにいろいろなタンゴのスタイルに精通し、その教え方の素晴らしさは誰もが感嘆する現場に何度も立ち会ってきた。
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私が個人的にアルバレスを知ったのは1979年のオスバルド・プグリエーセ楽団の来日の時。ただし、あの時はマエストロ、プグリエーセとの会話の方が大事だったのと、バンドネオン奏者としてはビネリと仲良くなったこともあって、アルバレスには、申し訳ないが4人目のバンドネオン奏者という何しろ「静か」な印象しかなかった。ただ、プグリエーセのお眼鏡にかなったアルバレスの経歴は結構華々しい。
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1940年5月7日にブエノスアイレスのチャカブーコに生まれ、8才でエクトル・マルセレッティに理論と音楽理論を学び始め、わずか14歳の時に彼のトレーニング・グループに加えられている。65年前は自身のトリオを結成して、バンドネオン奏者として、また編曲者としての名声を高め、ロベルト・ゴジェネチェ、アルベルト・マリノ、フロレアル・ルイスらの伴奏でも名を高めた。もちろん、コロールタンゴを率いてからも、オランダでの人気を背景に、オランダのロッテルダム国立音楽院でマスタークラスを開催したり、2002年には、マエストロ、ラバジェンが教えていたオルケスタ・エスクエラの指揮も手伝い、2月にコロン劇場で行われたプグリエーセへのトリビュート・コンサートでも彼らの指揮をしている。
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彼はその前、1989年に行われたオスバルド・プグリエーセ楽団の日本での「引退公演」に参加し、2011年になってプグリエーセ夫人の薦めもあってコロールタンゴの来日となった。直接よく話すようになったのは、この時から。ブエノスアイレスの中心部に自宅とスタジオを持ち、演奏活動の他に、優れた耳を生かしてそのスタジオも経営していた。夫人のピロさんはとても優しい優秀なマネージャーといった存在で、お二人には何かと世話になってきた。
彼らの日本公演では本当に色々なことが起こった。最初は、2011年3月11日の午後14時46分に起こった東日本大震災。全国公演の終盤で中野サンプラザの東京4公演はすべて完売で、その一つ目の昼公演の第一部終了の直前だった。劇場中が大きく揺れ、緞帳を下ろす前に、ピロ夫人がステージに飛び出して楽団を避難させ、私は会場にいる聴衆を安全に導く作業で一杯だった。揺れは収まったものの、この時はプグリエーセ夫人もいたというのに、港区のホテルに帰すことができたのがもう朝方で、しかもエレベーターが動かないから、弊社の男性社員が夫人たちを背負って部屋に入れたり、とそれは大変だった。TVでは現地の惨状が次々に映し出され、世界中には知らされたから、アルゼンチンの彼らの家族からの連絡だけでも本当に大変だった。アルゼンチン大使館の職員たちも海外に出るなど、明日にも原発が爆発するかも、という過熱報道に完全に振り回された。しかし、この楽団はそのすべてに落ち着いて行動してくれた。神戸の公演までを終え、後は残す2公演をキャンセルするしかなかったが、主催の民音はじめ各団体の神対応、アーティストたちの沈着な行動の両方には、ほんとに感謝しかない。
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その次は2018年、日本アルゼンチン修好120周年記念の年に行った記念イベント「コロールタンゴと小松亮太キンテート+タンゴダンス世界チャンピオン」。これも大好評の企画で、全席完売状態だったのだが、前日の岡山公演あたりから台風接近のニュースに翻弄された。当日台風はまだその日でも名古屋近辺にいて、コンサート時間にはほとんど影響がないにもかかわらず山手線を止めることを先に発表するという失態を犯してくれた当日にぶつかってしまった。しかし、昼夜の公演だったが、昼夜とも公演を決行。亮太キンテートの手に汗握る演奏と、コロールタンゴの格調高いタンゴが聴ける、素晴らしいステージを終えることができた。我々だけでなく、実はコロールも、小松亮太キンテートもお互いにその演奏を食い入るように聴いていて、お互いがお互いの演奏を讃え合ったが、その現場をあのときの聴衆はまさに確かめられた訳で、楽団が共演でもしてくれない限りは、実際には比較などできないから、あの時の聴衆の皆さんはまさに形は違えど、本当にタンゴを愛するプロフェッショナル同士の力の入った演奏はいずれもそれぞれに万人を納得させるもの、ということをまさに体験した瞬間だったのではなかろうか。というわけで「何かが起こるコロールタンゴ」と来日メンバーも我々も苦笑いするしかなかったが、今となっては本当に貴重な公演を実現できたことは幸せだった。
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こうして、マエストロ・アルバレスとはかなり深く付き合わせてもらったが、最後の18年の契約の時、「実は癌の検査で小さな癌が見つかったが、早い発見で状態は問題ない」との話をしていた。医師の診断書も携えての契約だったが、確かにこのコロールタンゴ、契約時は問題なかったが、実は昨年から具合は悪かったらしく、昨年アルバレスは正式に引退、最近のコロールタンゴの公演には必ず「運が良ければマエストロ、アルバレスが来て2、3今日演奏するかも」みたいな呼びかけがされていた。
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そんな中、3月5日になって、彼らのホームページで小さな一文が掲載された。
「大きな悲しみと共に、本日3月5日日曜日、マエストロ・ロベルト・アルバレスが私たちを82歳で去ったことを発表します。
彼は明日月曜日に彼の愛する町チャカブコで、彼の妻ピロ、家族、友人たちと別れを告げます。
親愛なるロベルト、あなたの音楽と教えに感謝します。 長い間あなたに伴走したミュージシャン、私たちはあなたの遺産を大事にし広めていきます。
…… 寂しくなるよ。」
「マエストロ・ロベルト・アルバレスは、ブエノスアイレス州チャカブコ市、リバダヴィア181号室で午前7時から午後6時までお別れできます」。
そして翌日、国立タンゴ・アカデミーは、
「彼の遺骨は故郷であるChacabucoに安置されます。私たちは、この悲しい瞬間に彼の妻、家族、友人たちを伴います 」
との声明を発表した。残念でしょうがない!
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いつも一緒だったピロ夫人の悲しみは想像するのも辛いが、早く元気を取り戻してくれることを願うばかりだ。これで本当の意味でプグリエーセのサウンドを真正に次ぐ楽団はなくなってしまった。しかし、このマエストロの遺産を、残されたメンバーは必死で繋いでくれることと思うし、このラ・フアン・ダリエンソのように、また新しい形でブームを起こしてくれる楽団が現れるかもしれない。
マエストロ・アルバレス、沢山の名演と忘れかけていたサウンドをしっかり教えてくれ、今まで繋いでくれてて本当にありがとう!!!ゆっくりと眠ってください!!!
(ラティーナ2023年3月)
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