見出し画像

[2024.10]【映画評】『ECMレコード サウンズ&サイレンス』〜創立55周年を迎えた名門レーベルの “静寂の次に美しい音楽” が生まれる瞬間

創立55周年を迎えた名門レーベルの
“静寂の次に美しい音楽” が生まれる瞬間

※こちらの記事は、10月23日(水)からは、有料定期購読会員の方が読める記事になります。定期購読はこちらから。

文●あくつ 滋夫しげお(映画・音楽ライター)

『sounds and silence unterwegs mit Manfred Eicher』
配給:EASTWORLD ENTERTAINMENT 2009年/スイス/87分
©2009 suissimage / Recycled TV AG / Biograph Film
2024年10月18日(金)より ヒューマントラストシネマ渋谷 他 全国順次ロードショー

 シンプルなインテリアの美しい白い部屋で、一人椅子に座り、物憂げに俯く精悍な顔つきの男。マンフレート・アイヒャー、1943年生まれのドイツ人、1969年に創立され今年55周年を迎えるECMレコードの主宰者だ。ECMは音楽的にはジャズを中心としながら現代音楽や民族音楽を取り込んだものが多く、それらの要素のバランスはミュージシャン次第で、結果的に各々独自の多様なサウンドを創り出している。そのためジャズと言っても一般的に想像されるブルージーにスイングするものは少なく、全体的に透明感のある研ぎ澄まされたイメージのものが多い。また1984年からは現代音楽に特化した新たな部門、「ECM New Series」を展開している。

 アイヒャーはアーティストの選択からアルバムの内容、録音、ジャケット・デザインに至るまで、プロデューサーとして全作品トータルに関わっている。そのためECMの作品はサウンドもビジュアルも独特のイメージで統一され、世界中に大勢存在するレーベル自体のファンを魅了し続けている。またアイヒャーは古くから音楽と映像の関係に興味を持っていて、そのきっかけになったのはまだECMを創立する前、ジャン=リュック・ゴダールの1962年の作品『女と男のいる鋪道』を観た時だという。ECMの諸作を聴いて誰もが映像を喚起させられたという経験があると思うが、それはまさにアイヒャーの意図するところなのだろう。ちなみにゴダールは90年代以降、自身のほとんどの映画にECMの作品を挿入曲として使用している。

©2009 suissimage / Recycled TV AG / Biograph Film

 本作は2009年に製作されたECMレコードのドキュメンタリーだが、内容はレーベルの歴史を時系列で紹介するようなものではない。アイヒャーがミュージシャンと共に、レーベル創設時からのコンセプト “静寂の次に美しい音楽” を生み出す瞬間を追い、その人物像に迫った作品だ。メインで登場するのは7人のミュージシャンで、アイヒャーはスタジオ録音だけでなく彼らが拠点とする世界各地に飛び、ホールや野外のコンサートにも同行する。そして彼らが語る幾つもの言葉からは、アイヒャーの音楽に対する深い情熱とより高みを目指す真摯な態度、そしてミュージシャンに対して注ぐ全身全霊の愛情が伝わって来る。その姿はまるで求道者のようで、さしずめ本作は彼の巡礼の旅を追ったロードムービーとも言えるだろう。各地の移動の描写として美しい風景が挿入されるが、その映像がまるでECM作品のジャケットが動き出したかのような、抽象的で洗練されたイメージで驚かされる。

 文頭のアイヒャーの描写は映画のオープニングの場面で、ECMの象徴とも言えるキース・ジャレットの澄んだピアノに導かれるように始まる。最初に登場するのはNew Seriesの記念すべき第一作を飾った作曲家アルヴォ・ペルトで、故郷エストニアの教会でのレコーディング風景が映し出される。ピアノを弾くペルトの横からアイヒャーが楽譜を覗きこみ、ペルトはメロディーを口ずさむ。ペルトがアイヒャーの録音方法の繊細さを語り、アイヒャーは美しい音の輝きについて語る。そしてペルトの重厚で厳かな音楽からもアイヒャーの普段のイメージからも全く想像出来なかったのだが、二人は明るい合唱曲をバックに手を取り合って微笑みながら楽しそうにダンスを踊るという、お茶目で衝撃的な姿も見せてくれる。

©2009 suissimage / Recycled TV AG / Biograph Film

 ギリシャはアテネの野外劇場で、エレニ・カラインドルーのコンサートの準備が進んでいる。本作では触れられないが、ECMと映画との関連という点でカラインドルーはとても重要な役割を果たしている。彼女は同じギリシャ出身の映画監督テオ・アンゲロプロス作品の音楽を『シテール島への船出』(84)以降全て担当しているが、アンゲロプロスはアイヒャーが敬愛し多大な影響も受けてきた監督だ。そしてカラインドルーは『蜂の旅人』(86)の映画音楽にECMのもう一人の象徴ともいうべきヤン・ガルバレクを演奏者として起用し、ここでカラインドルーとアイヒャー、つまり映画とECMが繋がったのだ。カラインドルーは後にアンゲロプロスの3作品を含む映画音楽をまとめた『ミュージック・フォー・フィルムズ』(91)をECMからリリースする。映画の終盤、カラインドルーのフランクフルトでのコンサートにはガルバレクも登場し、その幽玄なサックスを聴かせてくれる。

 今年の7月に9年ぶりの来日を果たし、変わらず白熱したアンサンブルを聴かせてくれたニック・ベルチュ “ローニン” は、スタジオでアイヒャーとレコーディングをしている。アイヒャーの具体的なアドバイスで、演奏自体やミキシングで音の強弱や出し入れを変えると、どんどん全体の音が良くなってゆく。それはアイヒャーが「プロデューサーはまずミュージシャンであるべきだ」、という自らの言葉を地で行っているように見える。
 スタジオに溢れかえるほど様々な打楽器を広げて多重録音を展開するのは、アメリカ人でデンマーク在住、80年代後半にはマイルス・デイヴィス・バンドに在籍して来日もしたパーカッション奏者マリリン・マズールだ。世界中の打楽器を自由に操る彼女の躍動的な音楽に、アイヒャーもエンジニアも楽しくなって思わず口元が緩んでくる。

©2009 suissimage / Recycled TV AG / Biograph Film

 チュニジア出身のウード奏者アヌアル・ブラヒムは、「東洋と西洋の楽器を上手く取り入れたい」と語るが、それはアイヒャーの言葉「東洋と西洋、そして北欧との境界にいつも興味がある」と響き合う。そして多様な音楽を描写して来た本作の中で、唯一空気が変わる瞬間がある。映画の終盤、ブラヒムがレバノンの女性歌手が歌っている映像を見ている時に、突然画面の外で大きな爆弾の音が轟き、女性は恐怖に慄く。それは2006年のイスラエルによるレバノン侵攻で、ブラヒムはアラブ諸国の中で最も民主的で表現の自由が守られていたレバノンが攻撃された事にショックを受ける。そして観ている我々は、誰もが今年の9月17日にレバノンで起きたイスラエルの犯行と言われているポケベル爆弾による攻撃を思い出し、18年経っても(実際にはもっと遥かに長く)変わらない中東情勢に絶望させられる。

 アルゼンチンのバンドネオン奏者ディノ・サルーシは、楽器自体も作曲も様々なジャンルの音楽も全て自己流で習得しており、アカデミックな教育を受けた音楽家と共演する時に自身の立ち位置と音楽家としてのアイデンティティーに悩んでいると言う。そして正式な音楽教育を受けてきたドイツ人チェロ奏者アニヤ・レヒナーとのデュオ演奏がしっくり行かず、その不安と不満を吐露する。サルーシはレヒナーに自分のルーツであるタンゴを体験してもらったり、セッションを重ねて、最終的に二人は音楽を通じて一つになる。チェロを弾くレヒナーを慈しむように見つめるサルーシの表情が印象的だ。そしてこのパートは前段に挿入されたレバノン侵攻のくだりに対する、本作なりの一つの回答かもしれない。国も出自も違う二人が音楽を介して寄り添い、時間を掛けてお互いを理解し合う。それは音楽を含む芸術が持つ、小さいながらも確かな希望なのではないだろうか。映画はその希望に呼応するように、再び登場したアルヴォ・ペルトの「主よ平和を与えたまえ」で幕を閉じる。

©2009 suissimage / Recycled TV AG / Biograph Film

 最後に、本作はサウンドトラック盤もリリースされている。映画の中では断片的にしか聴けなかった曲がフルサイズで収録されているので、映画の余韻に浸るのにも、ECMレーベルの入門編としても最適なアルバムだろう。ただし当然のことだが映画に使用された全ての曲が収録されている訳ではないのと、映画ではリハーサル風景が多いので別バージョンが収録されている曲もある。つまり二つの作品は互いに補完し合っているので、両方を何度も味わうのが正しい鑑賞方法だろう。



ミュージック・フォー・ザ・フィルム『ECMレコード - サウンズ&サイレンス』 [SHM-CD]
UCCE-1211

サウンドトラック
ミュージック・フォー・ザ・フィルム『ECMレコード - サウンズ&サイレンス』 [SHM-CD]
ヴァリアス・アーティスト Various Artists
発売日:2024/10/16
価格:¥3,080 (税込)
品番:UCCE-1211
発売元:ユニバーサル ミュージック合同会社
発売国:日本


収録曲
1. 聖典を読む / キース・ジャレット
2. レナルトの追憶に/タリン室内管弦楽団、トヌ・カリユステ
3. アルペッジャータ・アッディオ / ロルフ・リズレヴァント
4. モジュール 42 / ニック・ベルチュ
5. 河で / アヌアル・ブラヒム
6. クリーチャー・ウォーク / マリリン・マズール、ヤン・ガルバレク
7. タンゴ・ア・ミ・パドレ / ディノ・サルーシ、アニヤ・レヒナー
8. 別れのテーマ / エレニ・カラインドルー
9. 結婚のワルツ / エレニ・カラインドルー
10. オーホス・ネグロス / ディノ・サルーシ、アニヤ・レヒナー
11. コージ、トスカ / ジャンルイジ・トロヴェシ
12. 聖典を読む (リプライズ) / キース・ジャレット
13. 主よ平和を与えたまえ / エストニア・フィルハーモニー室内合唱団、タリン室内管弦楽団、トヌ・カリユステ

ECMレコード55周年特設ページはこちら↓

(ラティーナ2024年10月)


ここから先は

0字

このマガジンを購読すると、世界の音楽情報誌「ラティーナ」が新たに発信する特集記事や連載記事に全てアクセスできます。「ラティーナ」の過去のアーカイブにもアクセス可能です。現在、2017年から2020年までの3.5年分のアーカイブのアップが完了しています。

「みんな違って、みんないい!」広い世界の多様な音楽を紹介してきた世界の音楽情報誌「ラティーナ」がweb版に生まれ変わります。 あなたの生活…