[2023.2] 【書評】 大石 始 『南洋のソングライン―幻の屋久島古謡を追って』
文●今福龍太(文化人類学者)
屋久島に伝わる古謡の幽かな響き。その、南の海の島々を結ぶか細い音の糸の謎めいた曲がりくねりを丹念にたどりながら、人々よって守られてきた伝承の、無数のささやき声に静かに聞き耳をたてる旅人。そんな著者の「旅人」としての真摯さと謙虚さにまず印象づけられる。
旅はたしかに現代人にとってはかけがえなき自己探求の手段だ。だがその探求は、自分が何者であるかを知るだけでなく、何者でないのかを知り、さらには自分のなかに潜む得体の知れない他者を見出すことでもある。だから旅とは、そしてその旅を書くこととは、自己を鏡に映すことではなく、究極的には、見知らぬ顔と不意に対面することなのだ。しかもその身知らぬ顔が、いわれのない懐かしさと深い共感とともに出現するとき、私たちは「自己」なるものがけっして完結した一つの人格ではないことを知る。一人一人の生そのものが、いくつもの他者をやわらかく包容する、揺らぎをもった力の場として示される。
本書は、屋久島に伝わるまぼろしの古謡「まつばんだ」のルーツと成り立ち、そしてその変遷を屋久島の精神の内奥に探り、さらには南西諸島に広がるその歌の分身たちを追いかけるなかで綴られた思索紀行である。琉球音階を宿しつつ、屋久島の言葉で歌われる文化混交的な歌謡「まつばんだ」。その名前からしていくつもの解釈が並び立ち、その由来は判然としない。歌の存在は知っていても、すでに生で聞いた人もほとんどおらず、かすかに記憶している高齢者たちもその記憶はあいまいだ。著者は島の古老たちの記憶の霧のなかに分け入り、貴重な証言を聞きだし、これまでの研究者や学者たちのさまざまな仮説を丹念に読みこみながら、「まつばんだ」という謎めいた歌、そう気軽に歌って許される歌ではない「歌以上のなにか」でもあるものの由来を情熱的に探求してゆく。しかもその探求は、歌そのものをめぐる取材や調査といった求心的なものから、歌詞のなかで語られている島の聖なる山々への畏敬の思いを胸に自ら深山の聖地へと踏み込むことで、島の精神そのものに触れようとする開放的な試みへと深化してゆく。
著者は、古い伝承歌とはタイムカプセルのようなものだという。「歌の中にはかつてその時代を生きた人々の記憶や物語がインストールされていて、誰かが歌うことによって封印が解かれる」のだ、と。奄美群島のシマウタの世界に20数年のあいだ深く触れてきた私自身の直観もまさに同じものである。人が歌うというより、人をつうじて歌が自らを歌っている、そんな感触を何度持っただろうか。歌が、歌われたいという欲望を自ら持ち、それを引きだす者の声に歌の精神が宿るのである。そんな「歌」という人格は、途方もない旅人でもある。本書の著者が鹿児島や八重山にまで「まつばんだ」の痕跡やその前身を辿ろうとするように、群島を住み処とする歌は荒海を渡り、驚くほど遠くまで旅することができるからである。
戦後ブラジルに移民した奄美宇検村の人々の子孫たちが多く住む、サンパウロ郊外の街区ヴィラ・カロンを三線を持って訪ね、奄美のシマウタを歌ったことがあった。集まってくれた三世代にわたる奄美移民者のなかの最年長の一世の方々ですら移民当時は小さな子供で、親が歌っていた歌の記憶はほとんどないという。だが私が三線を鳴らし「朝花」や「くるだんど」を歌いはじめると、彼ら彼女らの表情が一瞬にして変わった。一時間もしないうちに「知らない」はずの歌が翁媼の口から漏れだし、最後にはともに歌い踊りあう華やいだ宴となった。一人の老人は涙を流しながらこう私に言った。「玉手箱が開いた!」と。この玉手箱こそ、本書の著者が言う「タイムカプセル」のことにちがいない。だが浦島伝説と違って、この玉手箱は人々を一気に年取らせるのではなく、逆に懐かしい故郷へとたちかえらせ、記憶を若返らせ更新させる魔法なのだった。こうした玉手箱の魂に触れることの神秘、歌というものの「魔術」のような不思議な感触を、本書の著者もおそらく何度も経験したことであろう。だがこの魔術は、いつでもおこりうるのだ。
屋久島の秘境白川山の廃村に移住した詩人山尾三省と、対抗文化の時代を象徴する雑誌『80年代』のことが本書にも出てくる。この『80年代』に創刊時から深くかかわった社会学者・真木悠介は、『気流の鳴る音』(一九七七)のなかでこんな示唆的なことを書いていた。「魔術はおそらく魔術師が作るのではない。魔術をあらかじめ帯電した世界があるとき、それがたとえばなんでもない異郷人のような材料のまわりに凝集して、魔術師を結晶させるのだ」と。これは真木のブラジルでの体験にもとづいて書かれた文章だが、旅をしていればどこでも起りうるこんな魔術が、私たちの住む世界が帯電している深い文化の力を証明している。著者はまちがいなく、異邦人としてその魔術を呼び込んだのだ。
「歌の道」(ソングライン)をたどること。これは、物理的に歌が辿ってきた道筋のことだけではない。その「道」とは、古い起源を宿すウタをいかにいま受け継ぎ、伝承するかという倫理のことでもある。変容した現代の日常生活のなかで、かつての歌が伝承されてゆく生活回路を私たちが失ったのであれば、真の伝承とはただ歌と歌い手を復活させることではないだろう。歌の背後に見え隠れする深々とした島の精神に学びつつ、それを新たな創造へとつなげてゆく営為のなかに、「歌の道」探求の旅は見えない縫い糸のようにして組み込まれてゆくべきなのかもしれない。
(ラティーナ2023年2月)
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