【追悼】ヒタ・リー(Rita Lee)、革新的にブラジル音楽シーンを先取りした「ロックの女王」
文:ラティーナ編集部
ブラジルの「元祖ポップ・ロック・クイーン」「ロックの女王」、ヒタ・リー(Rita Lee)が、5月8日夜に肺癌のために亡くなり、9日に公表されました。75才でした。2021年に肺癌と診断され、その後、治療を続けていました。
訃報は、家族によって、SNSで公表されました。最期は、サンパウロ市の自宅で、家族の見守る中、息を引き取りました。
ヒタ・リーは、夫のホベルト・ヂ・カルヴァーリョ(Roberto de Carvalho)と3人の息子(ベト[45才]、ジョアン[44才]、アントニオ[42才])を遺して旅立ちました。
ヒタ・リーの訃報を受けて、現ブラジル大統領のルイス・イナシオ・ルーラ・ダ・シルヴァは、SNSで、彼女の功績と敬意を的確に記したコメントを発表。
ルーラ大統領は3日間、喪に服すことを公式に定め、また、サンパウロ市も3日間喪に服すことを宣言しました。
サンパウロのことを歌った名曲「Sampa」の中で、ヒタ・リーのことを、「A tua mais completa tradução(サンパウロの完全なる表象)」と歌ったカエターノ・ヴェローゾ(Caetano Veloso)も、SNSで、彼女との思い出を功績を記し、その死を惜しみました(↓リンク先にはカエターノの肉声あり)。
ヒタ・リーは、1947年に、サンパウロ市の富裕層の住む都心の地区ヴィラ・マリアーナで米国系の歯科医の父とイタリア系の母との間に生まれました。彼女は1965年、学校で出会ったアルナルド・バチスタ(Arnaldo Batista)のバンドに参加。このバンドが「ムタンチス(Os Mutantes)」となりました。ムタンチスは、カエターノやジルベルト・ジルが牽引したアルバム『Tropicália』に参加、トロピカリア・ムーヴメントを代表する存在として、不朽の名作を残し、“世界中に”語り継がれる存在になりました。
“世界中に”…ヒタ・リーの訃報を伝える際に、ニューヨークタイムズは、故カート・コバーンや、デヴィッド・バーン、ベックが彼女のファンだったと、紹介しています。
ヒタは、1972年までムタンチスに参加し、『Os Mutantes(1968年)』、『Mutantes(1969年)』、『A divina comédia ou ando meio desligado(1970年)』、『Jardim elétrico(1971年)』、『Mutantes e seus cometas no país do baurets(1972年)』という世界の音楽の革新者たちに大きな影響を与えてきた作品を残しました。(※また、2000年にリリースされた1970年パリ録音のアルバム『Tecnicolor』にもヒタは参加しています)
ヒタ・リーがソロデビューしたのは、まだムタンチスに参加していた1970年。アルバム『Build up』でソロデビューしました。1972年の2作目のソロアルバム『Hoje é o primeiro dia do resto da sua vida』は、ムタンチスとして録音したアルバムでしたが、レーベルのプロデューサーの意向で、アルバムはヒタ・リー個人の名前で署名されました。そして、そのプロデューサーの先見の妙の通りに、ヒタ・リーは、ブラジルの音楽シーンに不可欠なスターになっていきました。
ムタンチスを脱退したヒタ・リーは、70年代初頭からサンパウロで活動を始めていたバンド「Coqueiro Verde」と合流。バンドはヒタのアイデアで「トゥッチ・フルッチ(Tutti Frutti)」と改名し、ヒタは70年代中盤〜後半に、バンド「トゥッチ・フルッチ」と『Atrás do Porto Tem uma Cidade(1974年)』、『Fruto Proibido(1975年)』、『Entradas e Bandeiras(1976年)』、『Babilônia(1978年)』という4枚のアルバムを発表しました。
この頃の代表曲に「Mamãe Natureza」、「Agora Só Falta Você」、「Esse Tal de Roque Enrow」、「Luz del Fuego」、「Ovelha Negra」、「Corista de Rock」、「Miss Brasil 2000」、「Jardins da Babilônia」があります。
今年出版された中原仁氏のブラジル音楽の歴史から名曲200曲をセレクトした『ブラジリアン・ミュージック200 - 200 Canções da Música Ppular Brasileira』 に取り上げられたヒタ・リーの楽曲「Ovelha Negra」は、1975年の『Fruto Proibido』に収録されています。同アルバムには、冒頭で引用したルーラ大統領のコメントでも曲名が引用されていた「Agora Só Falta Você(今、あなたが居なくて寂しい)」も収録されており、ヒタのソロ・キャリアを代表するアルバムと言えるでしょう。
バンド「トゥッチ・フルッチ」に、後のヒタの生涯のパートナーとなる鍵盤奏者/作曲家のホベルト・ヂ・カルヴァーリョが加入して以降、バンドを結成して以来リーダーであったギタリストのルイス・セルジオ・カルリニ(Luis Sérgio Carlini)は自身のプレゼンスの低下に納得できずに、バンド名を携え、ヒタの元を離れます。メンバーは、ルイスに付いていくものと、ヒタのバックバンドの活動を続けるものに分裂し、ヒタとバンド「トゥッチ・フルッチ」の共作関係は終了し、ヒタ・リーとホベルト・ヂ・カルヴァーリョの共作関係に移っていきます。ヒタに、ホベルトを紹介したのは、歌手のネイ・マトグロッソ(Ney Matogrosso)でした。1976年のことでした。
1979年のアルバム『Rita Lee』は、ホベルト・ヂ・カルヴァーリョとの共作関係が本格的に始まったアルバムとして知られています。全8曲中、5曲が2人の共作曲です。楽曲の中には、「Chega Mais」など、当時流行していたディスコ・ミュージックからの影響を強く受けたアレンジの楽曲もあり、ロック歌手からよりポピュラーな歌手へ変化するヒタ・リーの姿が垣間見られます。しかし、それ以上に、このアルバムがヒタ・リーがブラジル全土を席巻するきっかけとなったのは、ヒタが女性として初めて、セックスの快楽について明確に歌ったからでした。ヒタは快楽について口にすることを躊躇いませんでした。例えば、ヒタ・リーのキャリアを代表する1曲であるアルバム収録曲「Mania de Você」はこんな歌詞です。
この曲を、ホベルトと一緒に作曲したときのことを、ヒタは、インタビューで話しています。数分で出来た曲だと言います。「私たちセックスを終えたばかりで、ホベルトはギターを手に取り、私はノートを手に取って、歌い始めた」。── ブラジル中が、このカップルと共に歌い始めました。
シンセサイザーの魔術師、リンコルン・オリヴェチ(Lincoln Olivetti)によるアレンジが冴えた1980年代前半は、ブラジルにおけるテクノポップ・サウンドの先駆けとなり、「Lança Perfume」、「Caso sério」、「Banho de espuma」、「Desculpe o auê」、「Nem luxo nem lixo」など、リタとホベルトは更に多くのヒット曲を生みました。
『Rita Lee(Lança Perfume)(1980年)』や『Rita Lee e Roberto de Carvalho(Flagra)(1982年)』などのアルバムで、数百万枚の売上を記録しヒタ・リーは商業的なピークを迎えました。その名声とは裏腹に、ヒタ・リーは薬物の問題を抱え続け、何度か回復施設に入所することになりました。何度か活動を休止していたので、ヒタが白血病を患っているという噂を信じる人も数多くいました。80年代半ばから、ヒタの新作の注目度は下がり、魔法が効かなくなりました。
ヒタは、アコースティック・ギターでの弾き語りの活動も80年代初頭から始めており、そのショーは、1991年にアルバム『Bossa'n'roll』としてリリースされました。またこのアルバムは、1970年代後半から始まった、ホベルトとの共作関係を一旦、総括するアルバムであり、セルフ・プロデュースである次のアルバム『Rita Lee(1993年)』では、ヒタが主導しました。単独での自作曲や、イタマール・アスンサォン(Itamar Assumpção)といった新しい共作パートナーを迎えた楽曲が収録されています。(※私生活でのヒタとホベルトのパートナー関係は、ヒタが他界する日まで続きました。また、公的に、ヒタとホベルトが婚姻したのは 1996年12月13日)
以降、ライヴ・アルバムやライヴ映像の発表と、不定期なスタジオ・アルバム(『Santa Rita de Sampa(1997年)(※婚姻関係を結び、ヒタとホベルトの共作コンビも復活)』『3001(2000年)』)を経て、2003年に再度、キャリアを代表する代表作『Balacobaco』を発表。プロデュースは、ホベルトとDJ Memê。アルバムのプロモーションを牽引した楽曲は、アルバム冒頭の楽曲「Amor e Sexo(愛とセックス)」で、再度、はっきりセックスをテーマにした楽曲でした。「Amor e Sexo」は、国民的連続ドラマ(ノヴェーラ)でも大々的に取り上げられました。このアルバムを携え、北米、南米、ヨーロッパを廻る世界ツアーが行われましたが、アジアには来ていません。生涯、日本でコンサートを開くことはありませんでした。
最後のスタジオ・アルバムとなったのは、前作から9年ぶりとなる2012年リリースの『Reza(2012年)』。タイトル・トラックでもある「Reza(祈り)」が1stシングルとして、アルバムのプロモーションを引っ張りましたが、前作のようには注目されませんでした。ヒタは、この年で、ステージでの演奏活動から引退しました。
最後のレコーディングとなったのは、サンパウロで活動するDJのGui Boratto がプロデュースしたポップなダンス・ナンバー「Change」で、2021年9月にリリースされました。
ヒタは、ステージ活動を引退してから、2冊の自伝を出版しました。1冊目は、2016年に出版した「Rita Lee: uma autobiografia」で、ベストセラーとなりました。2冊目は、今年2023年の3月に出版された「Rita Lee: outra autobiografia」です。1冊目では、ステージでの音楽活動を引退するまでが記されていますが、2冊目には、パンデミックや闘病生活など、引退以降のことが記されています。
1冊目の自伝の最後で、ヒタ・リーは、「自分は人生で多くの人を幸せにしたと自己評価し、それが人生の最大の目標だった」と締め括っています。
なんて素敵な人生だったのでしょうか。合掌。
(ラティーナ2023年5月)
【おまけ】最も歌詞が閲覧されている愛され曲ベスト10【ヒタ・リー】
(https://www.letras.com/rita-lee/ より 2023年5月15日調べ)
① Amor e Sexo
② Lança Perfume
③ Saúde
④ Mania de Você
⑤ Ovelha Negra
⑥ Baila Comigo
⑦ Desculpe o Auê
⑧ Reza
⑨ Nem Luxo Nem Lixo
⑩ Agora Só Falta Você
ここから先は
世界の音楽情報誌「ラティーナ」
「みんな違って、みんないい!」広い世界の多様な音楽を紹介してきた世界の音楽情報誌「ラティーナ」がweb版に生まれ変わります。 あなたの生活…