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[2008.3]《今年はジルに抱擁を!》ジルベルト・ジル再考 第2回〜トロピカリアから見えてくるリーダーとしてのジル〜

 本記事は、ジルベルト・ジルの2008年の来日ツアーの前に半年にわたり特集した中の、月刊ラティーナ2008年3月号に掲載された記事です。今年、16年ぶりに来日することを記念し、本記事を再掲いたします。

文●花田勝暁

 トロピカリアの発端へフォーカスしていくとジルベルト・ジルとカエターノ・ヴェローゾがいる。が、ジルベルト・ジルは、トロピカリアのオピニオン・リーダーはまるでカエターノだったかのように振る舞い、カエターノは『ヴェルダーヂ・トロピカル』を執筆した。政治的・文化的な危機の時代に登場したブラジルの文化ムーヴメント「トロピカリア」が近年語られるときは、いつもいつもカエターノに直結して語られる。カエターノはトロピカリアのカリスマで、ジルはその衣を纏うのを徹底的に拒否しているように映る。
 今年は、ボサノヴァ50周年。トロピカリア40周年の年だけれど、日本でのボサノヴァ再評価は、ジョアン・ジルベルトの3度の来日公演で一区切りついた雰囲気があり、世界的なトロピカリアの再評価についても、そのきっかけを作った編集世代/ポスト・ロックのアーティストたちが、シーンの世代交替の中で、落ち着いた存在感を放つアーティストという立場に落ち着いてしまった感がある。何となく、ボサノヴァや、トロピカリアを含むMPBを熱をもって語るのが憚られる雰囲気にある。今、ブラジルから届く魅力的な音楽と言えば、新しい人も昔からの人たちも巻き込んでルネッサンスの真っ最中のサンバのシーンだったりする。
 そんな中だけれど、ジルベルト・ジル来日までの「ジルベルト・ジル再考」の第2回として、声高に、ではないけれど、トロピカリアを通して、ジルに迫ってみたい。トロピカリア・ムーヴメントが終わるまでのジルと、そこから見えてくるジル像に迫りたい。『ヴェルダーヂ・トロピカル』発刊以降、カエターノとの結びつきで語られることが多いブラジルのカウンター・カルチャー・ムーヴメント=トロピカリアを、ジルの立場から捉え直してみたい。

 1942年生まれのジルは、医者の父と、小学校の先生の母の間に生まれた。幼少期をバイーア州の片田舎イタウスで過ごしたジルの当時のBGMは、フェスタで演奏されるサンフォーナ(アコーディオン)の音色だった。ラジオから流れてきたのは、ルイス・ゴンザーガやジャクソン・ド・パンデイロの歌。中学校に上がる1950年に、サルヴァドール市の中学校に通うためにサルヴァドールへ引っ越す。そこで音楽学校にも通いアコーディオンを習い、詩の創作も開始する。友人たちとバンドを組み始めるが、まだギターを手にしない。ギターを手にしたのは、1960年にバイーア連邦大学に入学した時だ。母からのプレゼントとしてだった。あれほどにギター・テクニックを持つジルだが、ギターを手にした時期は意外に遅い。大学では経営学を学び、修了している。初めての録音は、20歳の1962年に。「コサ、コサ、ラセルヂーニャ」というマルシャを録音した。自作の曲が初めて録音されたのも同年。「ベン・ヂヴァガール」という曲を録音しているが、この時はギターではなく、アコーディオンの伴奏で参加している。盟友カエターノとの出会いを果たすのもこの頃。テレビでジョアン・ジルベルト・スタイルで演奏するジルの姿を見て、ジルのファンだった同い年のカエターノと、共通の友人を通じて1963年に出会う。カエターノの紹介で、ガル・コスタ、マリア・ベターニアといった人物と出会い、それが後にトロピカリア・ムーブメントに繋がっていくが、カエターノや彼女たちが録音を残し始めるのは1960年代中盤から後半にかけてであり、ミュージシャンとしての活動が早かったジルが、周りを牽引する役割を担っていたことがうかがえる。

「カエターノと知り合ったらガルを紹介してくれた。もちろんベターニアもいて。それから最初のショウをやって劇場の連中と知り合い、その時の監督だった男と共作を始めたり。そうやって知り合った人を集めて、それで何かをやろうと盛り上げていくのが好きなんだよ。コンサートやるんだったら、リハーサルから仕切るし、〝ちゃんとやれよ!〟なんてベターニアをよく怒ったりしていた(笑)」

 その音楽劇を作り上げはじめたのは1964年で、同年に初めてのソロ・コンサートを行った。結婚をし、1965年にはサンパウロへ引っ越しサラリーマンとして働きながら、音楽活動を続ける。ちなみに、この時働いていた会社は、ジェシー・レヴェル Gessy-Lever という企業で、今もウニレヴェルUnilever と社名を変えたが、環境や健康に配慮した商品を販売する企業として存続している。ジルのサンパウロでの音楽活動の中心はバール・ボシーニャ Bar Bossinha というライヴ・ハウスで、そこで演劇界や映画界の人物と出会い、自作の曲が映画に使用されることも。同年後半には、サンパウロで上演された演劇にベターニア、カエターノ、ガル、トン・ゼーらと出演。同演劇の中からの数曲は録音もされた。この時期、歌謡番組「オ・フィーノ・ダ・ボッサ」で若い世代のコンポーザーの曲を織り上げていたエリス・レジーナが、ジルがトルクアート・ネトと共作した「ロウヴァサゥン」を取り上げる。

「おもしろい話があるんだ。エリスが1965年の終わりだったか1966年のはじめだかにヨーロッパから戻ったのことだ。ルイ・ゲーハやエドゥ(・ロボ)を通じて、エリスと知り合っていた。エリスは〝ロウヴァサゥン〟をジャイール・ホドリゲスとのライヴ・アルバム『ドイス・ナ・ボッサ』で録音していた。予想してないことが起ったんだ。(エリスが司会をしている音楽番組〝オ・フィーノ・ダ・ボッサ〟を放送している)TVヘコルヂで火事が起った。朝早くのことだったけど、その時(正しいことを賞賛する歌)〝ロウヴァサゥン〟が丁度かかっていて、火事がおさまってもしばらく、どの番組でもかかる状態が続いたんだ。エリスも番組で歌い、そんなこんなで、〝ロウヴァサゥン〟はサンパウロでヒット曲となって、間もなくブラジル全土でのヒット曲となった。〝誰の書いた曲なんだ?〟って、僕は注目されはじめた。〝番組に出して欲しい〟って、みんなの関心が高まってきて、〝オ・フィーノ・ダ・ボッサ〟によく出演するようになったんだ」

 忙しい中、会社勤めも続けていたが、海外出張に行かなくてはならない段階になり、両親を含め多くの人との相談の末、1966年に会社を円満退社。音楽に専念。フィリップスと契約し、1stアルバムの制作をはじめる。
 1966年のTV局主催の音楽祭では、エリスがジル作の「エンサイオ・ジェラル」を歌い、5位に入賞。また同年リオで、マリア・ベターニアやヴィニシウス・ヂ・モライスらとともに音楽劇に出演。次の1967年には音楽番組の司会をする。1stアルバム『ロウヴァサゥン』発表後1967年の音楽祭では、ジルが「ドミンゴ・ノ・パルキ」をムタンチスととも演奏し、カエターノが「アレグリア・アレグリア」を歌った。観衆がエレキギターの導入に非常に大きなインパクトを受けた、エポックメイキングな瞬間だった。ジルとカエターノは時代の寵児となった。

 ジルに関して言えば、例えトロピカリアを起こさなかったとしても、1966〜67年の時点で十分にブラジルで音楽家として名が売れはじめていた。逆に言えば、そのジルが中心にいたからこそトロピカリアは強烈な瞬発力をもったムーヴメントだった。なぜジルは行動を起こしたのか?

「性格的なものじゃないかと思うんだ(笑)。何と言うか、僕はにぎやかな性格でね。誰彼なく何か一緒にやろうと持ちかけ、説得してやるのが好きなんだ」

 ジルは、その大きなムーヴメントの大義が自分にあることについてあまり多くを語らない。では、もう1人の中心人物カエターノが、ジルについて語った言葉から、ジルとトロピカリアについて迫っていきたい。1992年頃に書かれたものだ。

[〜省略〜、カエターノによるジル稿全文はこちら]でも、僕は後ろを振り返る。トロピカリズモは、1967年に、私たちのブラジルの美的判断基準や、政治や、ポピュラー音楽市場の姿勢を変えようという野心が結果として得た名前だ。私たちは、自分たちを狭小さや偏見さから自由にしたかった。おそらくマーケットと政治を行き来する今の「transmusico(移動音楽家)」なジルの興味についての理解がより深く行えるだろうから、今の時代を見渡すために、ここに(トロピカリズモの時代の話に)戻った。1966年、ジルは私たちが仕事に向かう姿勢に対して不安で、それに我慢しかねていると言い出した。ジルは、ビートルズについてや、北東部の飢え(レシーフェに何ヶ月か滞在していた)、独裁的な軍政府やマス文化の暴力について話しだした。詰るところ、ポスト・ボサノヴァの生温いシーンに居続けることが耐えられなかった。例えば、カピナン、僕(カエターノ)、ガル、トルクアート、ギリェルミ・アラウージョ、ホジェリオ・ドゥアルチといった親友たちに最初に話した。その後すぐ、普通の友人たちに話した。ジル自身が開いた(複数回あった)ミーティングで、そんな話がされた。彼は、みんなが理解してくれることや、彼のアイデアがみんなを巻き込むムーブメントになることを硬く信じていた。

 ジルが言っていることはそれほど理解されなかった。注目は、すごく小さなもので、この種のミーティングのことを一体何人が覚えているものか分からない。でも、ミーティングは確かに行われて、当時の僕が世界を理解するのに大切な時間だった。今、ジルに対して理解していることでもある。

 実際に、ジルはみんなを巻き込み、ムーヴメントを起こした。トロピカリアを自分が先導したムーヴメントだと今では声高に主張しないのが、ジルのパーソナリティーだが、ジルがいてこそのトロピカリアだったということをカエターノの言葉は伝えてくれる。
 私たちは、ジルが開いたプレ・トロピカリア時代のミーティングに参加することはできない。だが、ジルのリーダーとしての姿を、うかがい知ることができる。

 ジルは、ブラジルのプロ・ミュージシャンとしては誰よりも先駆けて、今年1月末からYouTube 上で、本格的な専用チャンネルを設けた。そのチャンネルでは、演奏風景はもちろん、楽屋裏の姿や家での姿も見ることができる。オンのジルの映像も、オフのジルの映像も豊富だ。中には、スピーチしている映像もあり、この時の熱弁をふるうジルの姿に、トロピカリア・ムーヴメントをリーダーとして牽引したジルのそのリーダー力を垣間見ることができる。歌う姿とまた別な説得力で、人を惹き付けるジルの姿だ。

 現在、ジルが力を込めて訴えているのは、インターネット時代の新しい著作権/肖像権の基準や、音楽の新しい配信/販売の方法についてだが、これらのことについても、定着して当たり前になってしまえば、自分が先頭をきって運きはじめたということを主張して見栄をはるなんてことは全くないんだろう。

 ジルが「ドミンゴ・ノ・パルキ」を、カエターノが「アレグリア・アレグリア」を歌ってから一年も経たない1967年12月末、ジルとカエターノは、軍警察に逮捕され、理由も無く投獄される。拘束は二ヶ月にも及んだ。結局ジルとカエターノは亡命せざるを得なくなり、1969年イギリスへ亡命した。2人はそれぞれ亡命先で検閲や逮捕の不安ない場所で創作活動を続けた。2人の亡命で思想的支柱を失い短命に終わったトロピカリアだが、冒頭でも少し触れたように、思想的にも音楽的にもトロピカリアの子供たちを数え上げればきりがない。

 本稿では、トロピカリアまでのジルを題材に、ジルのリーダーシップと、その謙虚な人間性を中心に取り上げた。ブラジルの文化的・政治的最重要ムーヴメントとしてトロピカリアを深く取り上げた良書は、「トロピカーリア」(クリストファー・ダン著、國安真奈訳:音楽之友社)をはじめいくつか存在するが、ジルの時代を感じる判断力とリーダーシップがあってこそのムーヴメントだったことも記憶に留めておいて頂ければと思う。そこに政治家ジルと音楽家ジルとの一貫した整合性もみえてくる。


Q. トロピカリアって?
A. 68 年、ジルベルト・ジルとカエターノ・ヴェローゾのコンビを中心に勃発したトロピカリアは、それまで基本的にアコースティックなものと捉えられていたブラジル音楽をエレキ化し、リオやサンパウロといった大都会では蔑視される傾向にあった北東部の伝統、フォホーやバイアゥンなどの音楽とリズムに決定的な市民権を与えた。トロピカリスタたちはビートルズのサイケなオーケストレーション、電気サウンド、バイーアのリズムなど、保守的なブラジル音楽界にあっては反体制としか映らぬものを等位に捉え、自分たちの世代の音楽を表現した。思想的的には、オズワルド・アンドラーヂの「新・食人宣言」(悪名高い食人の習慣を文化的な実践哲学に逆転し、どんな文化でも貪欲に食べて消化しなければ、という思想)に強く影響を受け、「トロピカリア」という名前はブラジルのインスタレーション・アーティストの同名の作品に由来する。(トロピカリア=トロピカリズモ) 主なトロピカリスタ:ジルベルト・ジル、カエターノ・ヴェローゾ、ガル・コスタ、ムタンチス、トン・ゼー、ナラ・レオン、ホジェリオ・ドゥプラ、ジョルジ・マウチネル etc

(月刊ラティーナ2008年3月号掲載)





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