[2022.6] 【映画評】『イントロダクション』『あなたの顔の前に』 ⎯ホン・サンス作品を観ることの豊かさとそこに描かれる人生の深さと機微について。
『イントロダクション』『あなたの顔の前に』
ホン・サンス作品を観ることの豊かさと
そこに描かれる人生の深さと機微について。
文●圷 滋夫(映画・音楽ライター)
世界三大映画祭の一つであるベルリン国際映画祭で、一昨年の『逃げた女』、昨年の『イントロダクション』、そして今年の『小説家の映画(仮題)』(2023年日本公開予定)と三年連続受賞の快挙を成し遂げ、しかもそれが監督賞、脚本賞、審査員大賞という主要部門で、あらためて “世界の巨匠” であることを知らしめた韓国のホン・サンス監督。そんなホン・サンスの『イントロダクション』と昨年カンヌ国際映画祭で正式上映された『あなたの顔の前に』の2本が、今月から同時公開される。
今や “世界の巨匠” だが、その作品的な特徴がキャリア初期には確立されて今でもあまり変わっていないことに驚かされる。物語は韓国映画にありがちなドラマチックで荒唐無稽な展開とは程遠く、溢れ出るような思いの激しさや歴史に根ざした重さとも一線を画し、何気ない日常の中から滲み出てくるような感情を、少ない登場人物の途切れることのない軽やかな会話を通して現出させる。オフビートでドライな笑いをまぶしながら、人間の愚かさや滑稽さ、哀しみ、そして愛おしさを浮き彫りにするスタイルは、むしろエリック・ロメールなどのヌーヴェルヴァーグや、初期ジム・ジャームッシュなどのNYインディーズ・シーンの諸作品の方が、その撮影方法も含め近いものを感じる。
多くの作品が二部や三部の構成を採って時系列を解体し、そのリフレインとそこから浮かび上がるわずかな違いが、観る者の感覚を惑わす。キャラクターとして映画監督や舞台演出家、俳優、詩人、大学教授、画家などのインテリ層の人々(男性が多い)が繰り返し登場し、彼らの過剰な自意識や複雑な劣等感をシニカルに炙り出し、それと対比するように若者の夢や希望と孤独、そして焦燥を描写する。そのほとんどが酒場やカフェでのリアルで何気ない(それでもツボを射て含み笑いをするような)日常会話から生まれ、カメラは度々ズームと左右のパンで意味有りげに登場人物に迫ってゆくが、そんなカメラの動きに意味が有るか無いかは観る人次第といったところか。
そしてこれらの特徴は、事前に完成した脚本を用いずに前日までの撮影や当日の天気、俳優と交わした日常会話などから、その日に撮影する分の脚本だけを書いて俳優に渡すという撮影スタイルを確立した2010年の作品『教授とわたし、そして映画』(2014年来日時の特別講義での発言による)以降、より顕著になる。その後の作品はわずかな例外を除いて上映時間は極端に短く内容もシンプルになり、表現がミニマルになった分だけそこに込められる映画的な美学はより深く、観客に委ねられる余白の意味もより豊かに進化しているのだ。
そう考えると人生の目的を決めかねている青年ヨンホの物語が、三部構成で綴られる『イントロダクション』は、これまでの集大成と言ってもいいだろう。各章で折り合いの悪い医者の父、ベルリンに留学する恋人、そして進路を心配する母とのエピソードが描かれるが、その中でヨンホは幼い頃に好きだった看護師、恋人、そして男友達との抱擁を繰り返す。一見、優しく誠実そうなヨンホが実は優柔不断なあざとい男に見えたり、極端な話『3人のアンヌ』(2012/ホン・サンス)の中でイザベル・ユペールが一人で3人のアンヌを演じたように、各章のヨンホを3人の別人格、またはマルチヴァースの別世界に生きるヨンホだと妄想しても決して間違いではないだろう。
他にもヨンホの夢が現実と並んでシームレスに描かれるが、夢の中のとてもリアルな出来事が実際に起こったかどうかの答は無く、男友達との微妙なBL的空気感は観客によっては何も感じない人だっているだろう。このようにわざと置き忘れたような謎を拾うもよし拾わぬもよし、そして拾って妄想を広げ様々な解釈をすることも許容される懐の深さこそが、本作の豊かさであり面白さなのだろう。いずれにしても意外な登場人物が各章を跨いで有機的に絡みながら物語が進むストーリーテリングの見事さと、素描のようなモノクロームの映像の美しさが際立っている。
一方で『あなたの顔の前に』には、新境地を感じる事も出来る。祖国を捨てアメリカに移り住んでいた中年女性サンオクが、久しぶりに帰国し疎遠だった妹ジョンオクを訪ねる。そして「なぜ帰ってきたのか?」というミステリー要素を孕みながら、ある日の朝から翌日の朝までの一日の出来事が描かれる。朝食を共にする妹との会話や、遅いランチからそのまま飲みに移行する映画監督とのミーティングを通じて、女優をしていた過去や姉妹の関係性、そして現在の状況が少しずつ明かされてゆく。そこにはホン・サンス作品としては異例の劇的な展開(抑制された表現ではある)が待っていて、時にノスタルジックで情緒的な雰囲気に包まれる場面もあるのだ。
またいつものように長回しの1カットによるリアルな対話を何度も捉えながら、同時に本作ではサンオクが一人で過ごしている時の無表情を印象的に切り取り、そこに人生の岐路に立たされた女性の寂寞感や内面の葛藤を立ちのぼらせる。それは初めてホン・サンス作品に参加したベテラン女優イ・ヘヨンの存在が大きく、実際に国際シネフィル協会賞や韓国の権威ある百想芸術大賞で主演女優賞を受賞している。その人生の空しさや残酷さを抉り取ったような凄味さえ感じさせる演技は、やはりこれまでのホン・サンス作品にはなかった要素であり、それを違和感なく全体になじませる監督の演出力にも驚かされる。
『イントロダクション』は集大成で『あなたの顔の前に』は新境地と書いたが、同じ年に製作されたこの2本にはチュ・ユニとシン・ソクホが母と息子を演じているという物理的な共通点の他にも、繋がっている部分がある。前者はヨンホの父が神に祈りを捧げる場面から始まり、後者ではサンオクが神に祈る場面が何度も映し出されるが、祈りは生と死をイメージさせる。前者には夢の中でヨンホの恋人が死を想う場面もあって、この2本にはどことなく死の匂いとスピリチュアルな生き方が提示されている。製作された2021年にホン・サンスが還暦を迎えたことが関係しているかどうかは分からないが、少なくともホン・サンス作品は新たなフェイズに入ったのではないだろうか。
イ・ヘヨンが再び主演を務める『小説家の映画(仮題)』(2023年日本公開予定)も、今から楽しみでならない。
(ラティーナ2022年6月)
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