[2024.9]【タンゴ界隈そぞろ歩き⑰】現代タンゴを作ったのはピアソラだけではないのだ
文●吉村 俊司 Texto por Shunji Yoshimura
前回の記事の結びで
と書いた。
では実際にどのような人が現代タンゴを創ってきたのかについて、今回は書いてみたい。とはいえ、そこはあくまでそぞろ歩き。筆者が個人的に気になる人を紹介する程度にとどめたい。年代的にも今回は1960年代頃までに登場した人に限ることにする。
ピアソラのその後
他の人の話に入る前にまずはアストル・ピアソラ(1921-1992)。前回の記事で1955年にパリ留学から帰国してスタートした《ブエノスアイレス八重奏団》、《弦楽オーケストラ》について触れたが、1958年には両楽団は解散している。ピアソラはニューヨークに渡るものの大きな成果には結びつかず、その間に父親が亡くなるという悲報を受け取る。そこで生まれたのが名曲「アディオス・ノニーノ」である。1960年に帰国したピアソラはバンドネオン、バイオリン、ピアノ、エレキギター、コントラバスという編成の五重奏団(キンテート)を結成。こちらは1961年にその五重奏団で録音された「アディオス・ノニーノ」。後年の録音に比べるとずいぶんシンプルに感じるが、これが原型だ。
以後のピアソラにとって、この五重奏団が最もベーシックな編成となった。折々で大きな編成についても試みたり、1970年代半ばにはローマを拠点にドラムスやシンセサイザーを導入してみたりしたこともあったが、結局は五重奏団に戻っている(病に倒れる前の最後に率いたグループは六重奏団だったが、五重奏団を再度結成したい気持ちはあったらしい)。下の映像はだいぶ後の1984年、ユトレヒトでのライブで「天使のミロンガ」。
ピアソラについては書き始めるときりがないので今回はこの辺で。
オラシオ・サルガン
一方、やはり前回も取り上げたオラシオ・サルガン(1916-2016)もピアソラと同じ楽器編成の五重奏団《キンテート・レアル》を結成する。こちらは彼の代表作「ア・フエゴ・レント(とろ火で)」。とろ火どころか強火で中華鍋を煽っているような勢いだ。
同じ楽器編成と言っても、特にエレキギターの扱いがずいぶんピアソラと違う、ということについては以前この連載でも書いた。
上述の記事でも書いたように、サルガンはギターのウバルド・デ・リオとのデュオでも活動している。こちらは1967年のアルバムから「グリジート」。
隅々まで行き届いた編曲は一度書いたら全く変えず、異なる楽器編成でも骨格は全く同じというのも他のアーティストにはない特徴である。例えば前回ロベルト・ゴジェネチェの歌入りで紹介した1953年録音の「シガ・エル・コルソ(行列を追って)」は1965年録音の歌なしではこうなる。
独自の美学を持った完璧主義者であり、ブラジル音楽やジャズにも通じ、研ぎ澄まされたハーモニーの感覚と独特のシンコペーションを伴ったリズムで新しいタンゴを創ったのがオラシオ・サルガンだった。
マリアーノ・モーレス
タンゴ界きってのメロディーメイカー、マリアーノ・モーレス(1918-2016) を「現代タンゴ」の人と呼ぶと違和感を感じる人もいるかもしれない(古くからのタンゴファンにとってはモダン派以外の何者でもないのだが)。早熟の天才肌で、1938年に16歳で作曲した「クアルティート・アスール(青い小部屋)」は専門家筋でも話題になった。若き日のピアソラは当時結成した自身の四重奏団に《クアルテート・アスール(青の四重奏団)》の名を付けたが、ほぼ間違いなくこの曲のタイトルをもじったもの。1939年からフランシスコ・カナロ楽団のメンバーとなり、ピアニストとして活躍する傍ら「ウノ」(エンリケ・ディセポロ作詞)、「さらば草原よ」(イボ・ペライ作詞、登録上はフランシスコ・カナロとの共作)、「グリセル」「クリスタル」(いずれもホセ・マリア・コントゥルシ作詞)など多くの名曲を書いている。1948年にカナロ楽団を辞して以降は自身の楽団で活躍。
カナロ譲りの大衆路線を維持しつつ、クラシック音楽の要素もちりばめた華麗なスタイルを目指したのが彼の現代タンゴと言えるだろう。下の映像は彼が主演した1953年の映画『我が街の声』で、名曲「タキート・ミリタール」を音楽学校の仲間と演奏するシーン。
並行して小編成での活動も行っている。こちらは《セステート・リトミコ・モデルノ(モダンリズム六重奏団)》での「タンゲーラ」。1963年の録音である。
しかしやはり彼の本領は、打楽器や管楽器も加えた大編成楽団での演奏だろう。ダンサーや歌手とともに行った華麗なショーは多くの人を魅了した。下の映像はずっと後の2000年のもので、娘や孫も加えた《オルケスタ・ファミリア》での公演。
ピアソラのような尖ったところはない。あくまで大衆寄りの路線、美しいメロディーのセンスと斬新なリズム感、柔軟な楽器編成のアイディア、そして華麗なショーをプロデュースするショーマンとしての才能は、タンゴの新しい面を切り開いた。
フリアン・プラサとエミリオ・バルカルセ
作曲の面で忘れてはいけないアーティストがいる。フリアン・プラサ(1928-2003)とエミリオ・バルカルセ(1918-2011)である。
バンドネオン奏者だったプラサはエドガルド・ドナート、ミゲル・カロ―、カルロス・ディ・サルリ等の楽団を経て1959年にオスバルド・プグリエーセ楽団に参加。作編曲家としても活躍し、アニバル・トロイロ楽団やプグリエーセ楽団に多くの編曲を提供したことでも知られる。作品は「センシブレーロ(多情多感)」「ダンサリン」「ノスタルヒコ」「メランコリコ」「パジャドーラ」「ノクトゥルナ」など数多く、今日でも多くの楽団が彼の作品をレパートリーに取り入れている。こちらはアニバル・トロイロ楽団による「ダンサリン」で1958年の録音。
バイオリン奏者のバルカルセは自身の楽団やエドガルド・ドナート等の楽団への参加、歌手アルベルト・マリーノ、アルベルト・カスティージョ等との活動を経て1948年から多くの楽団に編曲を提供し、1949年よりオスバルド・プグリエーセ楽団に参加。彼の最も有名な作品の一つに「ラ・ボルドーナ」がある。こちらはプグリエーセ楽団の1958年の録音。
他には前回の記事でアルフレド・ゴビ楽団の演奏として取り上げた「シ・ソス・ブルーホ」 や、「シデラル(天体)」「ノルテーニョ(北部の人)」など素晴らしい作品を残している。
プラサもバルカルセも1968年にプグリエーセ楽団を脱退して《セステート・タンゴ》の結成に参画する。プラサはここではピアノを担当。こちらはプラサの「センシブレーロ(多情多感)」。
その後プラサは自身の楽団を率いて活動、またバルカルセは楽器をバンドネオンに持ち替え、2000年に立ち上げた《オルケスタ・エスクエラ・デ・タンゴ・エミリオ・バルカルセ(エミリオ・バルカルセ・タンゴ学校オーケストラ)》で多くの若手タンゴミュージシャンの育成に携わる。下の映像はバルカルセの作品「ビエン・コンパードレ」。
演奏家としてもそれぞれ素晴らしい実績を残したが、それ以上に作編曲の面で、この二人が現代タンゴにもたらしたものは非常に大きい。
エドゥアルド・ロビーラの前衛タンゴ
バンドネオン奏者エドゥアルド・ロビーラ(1925-1980)は、ピアソラと並ぶ《前衛》タンゴの最重要人物である。なんと9歳の時にフランシスコ・アレシオ楽団でデビューした彼は、フロリンド・サッソーネ、ミゲル・カロ―など多くの楽団に参加、1949年には歌手アルベルト・カスティージョの伴奏楽団の指揮を任される。その後ラジオ局の専属オーケストラ等を経て1956年にはアルフレド・ゴビ楽団に参加、ゴビに捧げた「エル・エンゴビアーオ(ゴビに取りつかれた男)」を作曲する。
その後歌手アルフレド・デル・リオとのデル・リオ=ロビーラ楽団での活動、オスバルド・マンシ楽団への参加などを経て1960年には自身の楽団《アグルパシオン・デ・タンゴ・モデルノ(現代タンゴ集団)》を結成する。編成はロビーラのバンドネオンと弦楽四~五重奏、ピアノ、コントラバスで、バロックから現代までのクラシック音楽の憧れと影響の濃厚な音楽を作った。こちらは1964年ごろの録音で「コントラプンテアンド(対位法で)」。
シェーンベルクの十二音技法を導入した「セリアル・ドデカフォニコ(十二音階で)」。
その後1965年ごろからは、同じ《アグルパシオン・デ・タンゴ・モデルノ》を名乗りながら大きく編成を変えてバンドネオン、エレキギター、ベース (コントラバスもしくはエレキベース) のトリオで活動するようになる。演奏では時折とんでもない速弾きを聴かせたりもするが、不思議と熱さよりはクールさが感じられ、幽玄、透明といった印象も抱かせる。オスバルド・プグリエーセ楽団のドラマチックな演奏で一躍ステージダンスの定番になった「ア・エバリスト・カリエゴ(エバリスト・カリエゴに捧ぐ)」も、作曲者自身の演奏はこんな感じだった。
その後1970年ごろから一時タンゴを離れた後1975年に復帰、《アグルパシオン・デ・タンゴ・コンテンポラーネオ》の名の四重奏でアルバム『ケ・ロ・パーレン』録音するも、1980年に心臓発作により55歳の若さで亡くなる。ある面ではピアソラ以上に前衛的だった彼がタンゴ界に遺したものは決して小さくない。もし彼がもう少し長命だったら、この後どんなタンゴを作っていただろう。
というわけで
多少なりとも現代タンゴを創ったのはピアソラだけではない、ということを実感していただけただろうか。タンゴを聴いたことがある人なら知っている名前もあったと思うが、現代タンゴという視点でそれらの人の位置づけを確認していただくきっかけとなれば嬉しい。逆に、あの人に言及していないのはいかがなものか、この後の時代はどうなった、というようなご意見もあるだろう。それらについてはまた折を見て触れて行きたい。
(ラティーナ2024年9月)
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