追悼:宮田茂樹(音楽プロデューサー)
文:中原 仁
7月29日、音楽プロデューサー宮田茂樹さんが、急性心筋梗塞のため72歳で逝去された。宮田さんは長年にわたって病魔と戦ってこられ、4月に緊急入院。ペースメーカーを装着して退院後、SNSを頻繁に更新していたので順調な回復がうかがえ、ひと安心していたのだが……。心よりご冥福をお祈り申し上げたい。
宮田茂樹さんといえば “ジョアン・ジルベルトを日本に呼んだ人物” として知られている。“ジョアンの完璧な信頼を得た人物” でもあるが、それ以前、90年代からさまざまな形でブラジル音楽に関わってきた。さかのぼれば70年代後半からの日本のポップスの発展にも大きく貢献した、キーパーソンとなる音楽制作者だ。その略歴を紹介していこう。
1949年11月4日、東京生まれ。東京大学文学部卒。在学中、男女5人組のヴォーカル・グループ、リバティ・ベルズのメンバーとして活動し、南沙織のバック・コーラスをつとめたほか、1974年にリリースしたシングル曲「幸せがほしい」はTVドラマの挿入歌にもなった。
1976年、日本ビクターに入社。その後、RVC(後のBMG。現在はSony Musicに併合)邦楽ディレクターとなり、外部プロデューサーの牧村憲一さんと共同で、大貫妙子、竹内まりやを手がけた。竹内まりやの「セプテンバー」(1979年)のコーラスは、当時デビュー前のEPOと共に宮田さん自身が歌った。竹内まりやの大ヒットに続き、1980年にはEPOがデビュー。宮田さんは当時のニューミュージック~シティポップ・シーンのキーパーソンとなった。
1983年、RVC内に Dear Heart レーベルを作り、翌1984年にRVCを退社。ヨロシタミュージック(YMOが在籍)代表だった大蔵博さん(故人)と共同でレコード会社 MIDI を創立し、代表取締役に就任。大貫妙子、EPOなどを手がけた。大貫妙子の『PURISSIMA』(1988年)収録曲「Voce é Bossanova」でギターを弾いたのが小野リサ。翌1989年、小野リサが『CATUPIRY』でデビューし、セカンド・アルバムまで MIDI に所属。エグゼクティヴ・プロデューサーをつとめた宮田さんは、小野リサを機にブラジル音楽にまで仕事の枠を広めることとなり、僕も宮田さんとの関わりが深くなっていった。
1990年、MIDI で伝説のボサノヴァ・インディーズ・レーベル、エレンコのCD復刻プロジェクトを開始。並行してブラジルの別レーベル(現存する)のリリース・プロジェクトの相談も受けたが、こちらは立ち消えになってしまった。宮田さんは間もなく MIDI を退職され、しばらく縁遠くなったが、大貫妙子さんのリオ録音盤『TCHOU(チャオ!)』(1995年。TCHAUと表記されるべきタイトルが誤記されてしまった)の準備段階を僕が手伝った後、宮田さんと大貫さんの共同プロデュースで進行したので、縁は間接的に続いていたことになる。
その後、RVC時代に立ち上げたレーベルと同じ名前の宮田さんの会社、Dear Heart からブラジル音楽の復刻盤のリリースを始めた。スタートが2001年で、カルロス・リラの初期の音源をデジタル・リマスタリングしたベスト盤、タンバ・トリオの『ブラック・プラス・ブルー』など。中でもハイムンド・ビッテンクールがプロデュースとヴォーカル・アレンジを手がけたヴォーカル・グループ、アクアリウスの復刻は、ヴォーカル・グループ出身の宮田さんならでの慧眼。
これらのカタログの通し番号1番が、“ホワイト・アルバム” の別名でも知られるジョアン・ジルベルトの1973年盤『João Gilberto(三月の水)』の、正規のアナログ・マスターをデジタル・リマスタリングしたCD。1996年にリマスタリングした音源をジョアンに送ったことが、後の来日公演実現への一歩となった。このCDが発売された2001年、宮田さんは招聘元プロマックスの社長、遠山豊さんらとリオに飛んで来日公演の交渉に着手した。
そして2003年、ジョアン来日。日本のオーディエンスの反応を気に入ったジョアン自身の熱望で、記録用の音源からライヴ盤CD『In Tokyo』が生まれ、2004年、2006年にも来日。2006年公演の映像が12年余の歳月を経て、ジョアンの60年余のキャリアを通じて初となる公式映像として Blu-Ray で発売された。
ライヴCDと映像ソフトのプロデューサーも宮田さん。ジョアンが宮田さんに対し、一人の人間として心を許し、音楽作りのプロフェッショナルとして認めていたことは容易に想像できる。そもそも宮田さんは、その豊かな実績から思い浮かべる “偉い人” の佇まいが全くない、穏やかでソフトな物腰の奥から知性と品性がにじみ出てくる方。そしてもちろん、音楽に対して非常に鋭い耳の持ち主で、独自の美意識も備えていて、ちょっとした話の端々から学ぶことがとても多かった。ジョアンの来日公演ブックレットやCD、Blu-Ray など、数多くの原稿執筆を依頼してくださったことにも感謝している。
2020年の初めに宮田さんから、前年に世を去ったジョアンへのトリビュート・アルバム、追悼ではなく生誕90年に向けたアルバムを、発案者マリオ・アヂネーとの共同プロデュースで制作するプロジェクトの話を聞いた。参加メンバーや選曲のアイディアを求められて提出し、宮田さんからは、制作の現場も手伝ってほしいので一緒にリオに行こうと誘っていただき喜んだが、コロナ禍でリオ行きは頓挫。現地録音はマリオの指揮のもと、主にリモート録音で行なわれ『ジョアン・ジルベルト・エテルノ』として発売された。リオに行けなかったことよりも、宮田さんのスタジオでのプロデュース・ワークを見て学ぶ機会を逸したことが残念だった。
もうひとつ残念なことがある。以前、宮田さんがジョアンから依頼を受けて行なった、初期の三部作アルバム『Chega de Saudade』(1959年)『O Amor, O Sorriso E A Flor』(1960年)『João Gilberto』(1961年)のオリジナル・マスター音源からのリマスタリング(ファーストはモノラル音源)。これは数年前、すでに出来上がっていたが、ジョアンが世を去り、宮田さんもまた…… となった今、幻と化してしまい、世に出る可能性はほとんどないだろう。
他にも様々なプロデュース・ワークを行なってきた宮田さんだが、この20年あまり、宮田さんの人生はジョアン・ジルベルトを軸に回ってきたと言っていいだろう。ジョアンにとっても晩年の20年間、実際に会う機会も含めて共有する時間が長かったアミーゴが、ミヤータさんだったのではないだろうか。今頃は天国で再会して、地球ではついに実現しなかった、ジョアンが未発表のオリジナル曲を歌うアルバムの企画を進めているかもしれない。
Descanse em paz, Miyata san…
(ラティーナ2022年8月)
ここから先は
世界の音楽情報誌「ラティーナ」
「みんな違って、みんないい!」広い世界の多様な音楽を紹介してきた世界の音楽情報誌「ラティーナ」がweb版に生まれ変わります。 あなたの生活…