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[2025.2]【タンゴ界隈そぞろ歩き㉑】ビジャ・クレスポの花、パキータ・ベルナルド
文●吉村 俊司 Texto por Shunji Yoshimura
前回の記事でも言及したとおり、今年はパキータ・ベルナルド(Paquita Bernardo)の没後100周年にあたる。
プロとして最初の女性バンドネオン奏者だっただけでなく、作曲家、楽団指揮者としても活躍し、「Flor de Villa Crespo(ビジャ・クレスポの花)」というニックネームで呼ばれた彼女のことについて、今回は掘り下げてみたい。
パキータ・ベルナルドの経歴
1900年5月1日、スペインからの移民である両親ホセ・マリア・ベルナルド、マリア・ヒメネスのもとにフランシスカ・クルス・ベルナルド (Francisca Cruz Bernardo) は生まれた。パキータはスペイン語でフランシスカの愛称である。生地はブエノスアイレスのビジャ・クレスポ (幼い頃にビジャ・クレスポに移住したと書かれた文献もある)。同地は国立の靴工場を中心に発展した場所で、オスバルド・プグリエーセの生地でもある。
音楽に興味を持った彼女は15歳でカタリーナ・トーレス音楽院に入学し、ピアノを学ぶ。しかしある時、同級生だったホセ・セルビディオ(後に「アジャクーチョ街の小部屋」を作曲するバンドネオン奏者、作曲家となる)が持ち込んだバンドネオンに接し、この楽器に魅せられる。バンドネオンは演奏する際に楽器を乗せた脚を開閉することから、当時この楽器を女性が弾くことは「はしたないこと」とされていた。しかしどうしてもバンドネオンを弾きたいと思った彼女は独学で練習を始め、大家アウグスト・ベルトの書いたメソッドをマスター。最初は両親に隠れて始めたものの、やがてその秘密を告白し、強固に反対する両親や家族を説得して最後は許しを得る。ペドロ・マフィア、エンリケ・ガルシアらの指導も受けてめきめきと上達。
彼女の最初のグループはバイオリンのアルベルト・プグリエーセ(オスバルドの兄)、ギターのオルテンシア・デ・フランコとのトリオで、カフェなどのほか、どこかに招かれれば演奏する、という活動が1920年ごろまで続いた。他にはバイオリン奏者のホセ・ジュニッシの六重奏団への参加、兄のアルトゥーロのドラムスとのデュオなどもあったようで、特に近隣で行われたショーにジュニッシと出演した際には、一躍彼女の名前が市の中心部まで伝わったという。
そんなこともあってか、1921年には転機が訪れる。有名な《カフェ・ドミンゲス》からのオファーがあったのだ。当時の平均的なバンドネオン奏者の給料が月120ペソだったところ、月300ペソが提示された。しかし彼女はこれを突っぱねて最終的には月600ペソで契約し、《オルケスタ・パキータ》を結成。メンバーは彼女のバンドネオンのほか、アルシーデス・パラベシーノ、エルビノ・バルダロ(バイオリン)、オスバルド・プグリエーセ(ピアノ)、ミゲル・ロドゥーカ(フルート)、アルトゥーロ・ベルナルド(ドラムス)。後に巨匠となるバルダロとプグリエーセの名前があるのが目を引くが、二人とも1905年生まれなのでまだ15~6歳の少年だった。パキータのオルケスタは大変な人気を博し、詰めかけた群衆が道を塞ぐので交通整理のために警官が出動したとも言われている。女性バンドネオン奏者が珍しかったという面もあるとはいえ、それだけではないだろう。
1922年には新しく開局したラジオ局ラジオ・クルトゥラにピアニストのホセ・タンガとともに出演。1923年にはウルグアイのモンテビデオにも演奏に赴き、帰国の際には彼の地に捧げるワルツ「セロ・ディビーノ(Cerro Divino 聖なる丘)」を作曲した。同年、作曲家協会主催の《グラン・フィエスタ・デル・タンゴ》に唯一の女性ミュージシャンとして出演。その他カフェや劇場などで演奏した。
1924年には彼女の作曲した「ソニャンド(Soñando 夢見ながら)」がマックス・グルックスマン商会主催の第一回タンゴ作品コンクールで応募曲140曲の中からAccessit(次席、佳作)に選ばれる。ちなみにマックス・グルックスマン商会は当時アルゼンチン最大のレコード・レーベル《ナシオナル・オデオン》(後のオデオン)を持つ会社で、この時の優勝曲はフランシスコ・カナロの「ガウチョの嘆き」だった。同年12月10日より、女優のブランカ・ポデスタの劇団とともにスマルト劇場にデビュー、1925年2月末まで出演。
そんな順風満帆の活躍をしていた彼女だが、1925年4月14日、25歳の誕生日を目前にして命を落とす。死因は悪性の風邪からの気管支肺炎と言われている。あまりに惜しい、あまりに突然の死だった。
残念ながら彼女は録音を残していない。グルックスマンのコンクールで入賞したことを考えると録音の機会があってもおかしくないとも思うのだが、現実はその機会よりも死の訪れの方が早かった。一方約5年の間に彼女は15曲ほどの作品を作曲しており、その一部は他のアーティストの録音で聴くことができる。フアン・カルロス・コビアン「フロレアル(Floreal)」、ロベルト・フィルポ「カチート(Cachito)」、カルロス・ガルデル「ラ・エンマスカラーダ(La enmascarada)」と上述の「ソニャンド」。
進歩的な女性としての側面
彼女は、ベルナルド家の掟として料理ができるようになった女の子に順に引き継がれてきたエプロンを頑として受け取らず、結婚の話も拒否したそうだ。曰く「私は既にバンドネオンと結婚しているから」。演奏の際にはズボンではなくスカートを履いていたそうだが、これは脚の動きの「はしたない」という非難をトーンダウンさせる意味もあったようだ。一方でシャツを着用し、ネクタイを締めることもあったという。髪はショートカット。周囲の反対を押し切ってバンドネオンを演奏する道を貫いただけあって、強い意志と因習に囚われない考え方を持った女性だったということだろう。
また、ブエノスアイレス近郊のベラサテギにおけるアナーキストの団体《ベラサテギ社会抵抗協会(La Sociedad de Resistencia Social de Berazategui)》の文化闘争にも協力し、1921年11月20日にはグループ《Arte y Natura(芸術と自然)》による即興劇「Préstame tu mujer」にてオルケスタを率いて演奏している(彼女が亡くなった際、Arte y Natura は彼女への惜別と感謝の気持ちを込めた追悼の辞を贈った)。その他病院や慈善団体でも演奏しており、社会運動や慈善事業に関心を寄せていたことがうかがえる。
オスバルド・プグリエーセとの縁
上述のように、まだ15~6歳の少年だったオスバルド・プグリエーセはパキータ・ベルナルドの楽団に加わった。同じビジャ・クレスポの出身でもある。そういう意味ではプグリエーセにとってパキータは非常に縁の深いミュージシャンだった。一方、古くからのタンゴファンの中には、プグリエーセの処女作「レクエルド(Recuerdo 想い出)」がパキータ・ベルナルドへの想いを綴った曲である、と認識している方もいるかもしれない(実は私自身が最近までそう思っていた)。過去にリリースされたレコードの解説に書かれていたことなのだが、どうやらこれは誤りのようだ。
「レクエルド」が発表されたのは1924年。楽曲の元々のタイトルは「我が友人たちへの想い出(Recuerdo para mis amigos)」で、その後シンプルに「レクエルド」に改題された上でサブタイトルとして「我が友人たちに捧ぐ(A mis amigos)」が付けられた。本人によれば「カフェに集っていた少年たちへのオマージュ」なのだそうだ。時期的にもパキータが亡くなる前年で、バリバリ活躍している人にオマージュを捧げるのも不自然だし、アルゼンチンの文献でもこの曲とパキータを結びつける記述は見つけられなかったので、無関係と見るのが正しいようだ。もっともあのロマンティックな曲想は、同年代の悪ガキたちへの想い出であるよりはパキータへの思慕であってほしかった気はするのだが。
一方で、プグリエーセが共産主義に傾倒していくこととパキータが社会運動に関わったことには、共通する意識があるように思える。もちろんこれも単なる偶然かもしれないし、ビジャ・クレスポという土地柄、或いは時代の空気によるものかもしれず、安易に影響があったと判断すべきではないだろう。ただベラサテギでの演奏には時期的にプグリエーセも参加していたはずであること、結果として同じような意識を持っていたであろうことは認識しておいて良いかもしれない。
以上、今年で没後100周年となるパキータ・ベルナルドについてまとめてみた。100年前に彼女の風邪が適切にケアされていたら、タンゴには何がもたらされただろうか。そう思わずにはいられない存在である。
【参考】
↓以下はパキータに関する貴重な日本語資料(pdf)です。
“パキータ・ベルナルド” 及びその他の1920 ~ 1930年代の女性バンドネオン奏者たち(齋藤冨士郎, 日本タンゴ・アカデミー機関誌 Tangueando en Japón No.31, pp.118, 2013)
https://tangoacademy.jp/wpv2/wp-content/uploads/22ab4f87c0baceba8439d85291e7adc7.pdf
(ラティーナ2025年2月)
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