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[2022.2]【沖縄・奄美の島々を彩る歌と踊り19】 琉球と奄美、歴史と歌舞のあいだ

文:久万田くまだすすむ(沖縄県立芸術大学・教授)

 奄美大島の八月踊り(連載第7回)の中に、「あじそえ」という曲がある。

按司添あじそえがみふねやよ 渡中となかりじゃしゅらばよ
波やうちえてゅり 風やまんま真艫まともかや
あの浜にんきょたさ この浜にんきょたさ
あの浜につけろかや  この浜につけろかや
笠利かさん浜につけろかや 辺留べる浜につけろかや 
(以下略、奄美市笠利町城前田八月踊り)

 この曲のハヤシ詞は「ヤイキュラキュラ ヤイキュラ ヤイキュキュラ シャンクルメ シャンクルメ」という親しみやすいもので、大島各地に広がっている曲である。ただし歌詞の音数律は5555型であり、琉歌形式8886型や近世小唄調7775型の歌詞が圧倒的に多い八月踊りの中では異例の曲となっている。

 沖縄本島の臼太鼓研究に大きな業績を上げた故小林公江氏の研究によると、沖縄の臼太鼓にもこの八月踊り「あじそえ」と同系曲が多く見いだせる。例を挙げると、恩納村仲泊なかどまりでは曲名が特徴的なハヤシ詞に由来する「さんくぬめー」と呼ばれている。うるま市勝連かつれん平敷屋へしきやの「うむたんて」では「按司添前船ぬ 渡中押し出りば」と、奄美八月踊りと同じく「按司添あじそえ」の船出が歌われている。さらに小林氏は、この系統は古典音楽「清屋節ちゅらやぶし」までつながるとしている。つまりこの曲は、奄美から沖縄まで北部琉球文化圏に広く伝播した旋律なのである。

 沖縄の古歌謡集『おもろさうし』に頻出する語「按司襲(添)」とは、他の按司あじ(地方豪族の長)を襲う=支配する者、すなわち琉球国王のことである。たとえば762番おもろに「按司襲あぢおそいぎや親御船おやおうね かず まぶりよは」と、国王の船出の情景を歌う語句が出てくる。さらに次のようなおもろもある。

第十ありきゑとのおもろ御さうし 554
 きこ押笠おしかさ 鳴響とよむ押笠 やうら ちへ 使つか
 又 喜界ききゃ浮島おきしま 喜界のしま
 又 浮島にから 辺留笠利ひるかさりかち
 又 辺留笠利から 中瀬戸内せとうちかち
 又 中瀬戸内から かねしまかち
(以下略)

外間守善『おもろさうし 上』 岩波文庫 2000年

 ここでは神女「押笠おしかさ」が奄美諸島北東部の喜界島から奄美大島の辺留笠利ひるかさり(現:奄美市笠利町東海岸)に至り、奄美大島南西部の瀬戸内(現:瀬戸内町)を経て徳之島、沖永良部島、与論島、沖縄本島へと航海する情景が歌われている。まさに先の八月踊り「あじそえ」と同じく、奄美の島々の沿岸を航海する「琉球側の視線」から歌っているのだ。

 ここで沖縄・奄美の歴史を振り返ると、第一尚氏最後の尚徳王(在位1461−69年)は1466年に自ら2千人余の軍勢を率いて喜界島討伐をした。琉球国はその後も奄美大島討伐を数回行っている。尚清王時代(在位1527−55年)の1537年には、与湾大親ゆわんうふうや(沖縄の名門である馬氏ばうじの祖)が讒言ざんげんにあい琉球軍に攻められて自害している。尚元王時代(在位1556年−72年)の1571年には、王自らが大島に赴き叛徒を討伐するが病となり、法司官順徳じゅんとくの必死の祈祷により回復している。

 これらの度重なる奄美大島討伐は、琉球国の船が中継貿易で東南アジア一帯を往来した16世紀になっても、いまだ奄美大島近辺には琉球国に完全には服属しない勢力が残っていたことを示唆している。近年考古学界で注目を集めている喜界島城久ぐすく遺跡群(最盛期は11〜12世紀頃)は大和政権の南島経営の拠点であったとされている。奄美大島に残存する反琉球勢力も、この喜界島を拠点とする勢力と何らかの繋がりを保っていたことが想像できる。

奄美大島北東部と喜界島(中央奥) 撮影:久万田晋

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