[2023.1]【太平洋諸島のグルーヴィーなサウンドスケープ㉚】 沖縄に渡ったミクロネシアの行進踊り ―島民ダンスからバッサイロンまで―
文●小西 潤子(沖縄県立芸術大学教授)
前号で、小笠原の南洋踊りをご紹介しましたが、実はこれと同系統の行進踊りが、沖縄本島や八重山諸島にも伝わっているのです。うるま市栄野比では「島民ダンス」、宜野座村惣慶では「南洋踊り」、恩納村仲泊では「南十字星」と呼ばれ、敬老会や観月祭など集落の年中行事など、さまざまな場で余興として演じられています。かつてこの踊りを南洋から宜野座村惣慶に伝えた方のお孫さんは、小笠原の南洋踊りを見て、似たような踊りがあることに驚いたそうです。また、小笠原の南洋踊り保存会は、いち早く栄野比で「島民ダンス」の視察をし、2018年に小笠原返還50周年記念事業の一環で栄野比の人々を父島に招いて、交流公演を実現しています。
かつて、沖縄県内ではたくさんの地域にミクロネシアの行進踊りが広まっていたようです。ところが、ご覧になっても「あれは余興だから」とか「そんなに貴重な踊りなの?」など、皆さんおっしゃるのです。その伝播の経緯を知らなければ、面白可笑しい余興の1つに過ぎないと思われるでしょう(2022年12月号)。
最近では、沖縄本島で踊られる機会が限られてきたようですが、うるま市栄野比の「島民ダンス」は、2017年1月に国立劇場おきなわ民俗芸能公演でも上演されました。見た目ももちろん、歌や動作もインパクトたっぷりです(写真1)。栄野比に「島民ダンス」をもたらした方からのお話によると、ご本人が15歳の時、テニアン島で南洋興発(株)第4農場2班による収穫祭で出し物として踊って覚え、その後、4~5回公演したとのことでした。しかし、戦後米軍司令部が置かれていた栄野比にはしばらく戻れず、8月の十五夜が復活した1972年頃、この踊りを広めたそうです。
テニアン島は、サイパン島の南西約5km。小型飛行機で15分ほどの位置にあり、面積101.8k㎡。現在の人口は、約2,000人です。スペイン支配が確立した後、1695年に島民全員がグアム島に強制移住させられて無人島となったところ、日本統治時代に入って森林の伐採と開墾と椰子の栽培が始まり、1918年には山形県出身者約100名とサイパン、ロタの両島民約300人が移住しました。しかし、1919年初め頃には害虫の大発生と大旱魃になり、日本からの移民はほとんど引き揚げました。そこへ、1926年砂糖やコーヒー、綿花の生産を開始したのが、南洋興発(株)―そう、あのシュガーキング・松江春次氏が設立した会社です(2020年10月号)。
南洋庁による1941年の調査では、マリアナ諸島全人口53,015人のうち、テニアンの人口は15,864人。外国人4人を除く15,860人が日本人で、現地の人は誰も住んでいませんでした。年1度の収穫祭で「島民ダンス」をやろうと提案したのは、鹿児島県出身者だったとのことで、踊りも日本本土の人から習ったといいます。また、10人くらいの踊り手のうち、2名の沖縄本島出身者以外は、福島県など日本本土出身者でした。
小笠原の南洋踊りの演目は、「ウラメ」「夜明け前」「ウワドロ」「ギダイ」「締め踊りの歌」「アフタイラン」と、サイパン島のレファルワシュRefaluwasch(通称カロリニアンCarolinian)の演目が中心でしたが、栄野比の演目は、「酋長の娘」(作詞・作曲:石田一松)「ウワトロフィ」「演者の自己紹介」「アバイの月」「リーエン ナイシー」から構成されています。表記は少し異なりますが、共通する演目「ウワドロ」と「ウワトロフィ」は、現在のレファルワシュの演目にも含まれています。「酋長の娘」は、ハーモニカによるメロディを伴って、入退場に用いられます。「アバイの月」は、1939年には知られていた日本語の歌で、アバイはパラオやヤップで集会所のこと。「リーエン ナイシー」は、中央カロリン語の歌のように思われます。日本人しかいなかったテニアンで、日本語の演目などが加わっていったのでしょう。
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