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[2024.9]【追悼】セルジオ・メンデス〜セレンディピティな人生を振り返る〜

文●岡本郁生

 セルジオ・メンデスが亡くなったことを知ってすぐに思い出したのは、数々のヒット曲の中でも中学生のころに初めて聞いて衝撃を受けた「フール・オン・ザ・ヒル」のクールでソフト・ロックなサウンドと、当時の “中二な” (笑)日々のあれこれだったが(70年代初頭なのでリアルタイムではなくリリースからは少しあとになります)、驚いたのは、83歳というその年齢である。

 「マシュ・ケ・ナダ」が大ブレークしたのが60年代半ば。それ以前にブラジルでもある程度のキャリアを積んでいたはずだから、ざっと計算しても90歳は行ってるんじゃないの?……という勝手な想像に反して、なんと83歳とは! 改めて経歴を見直してみたら、1941年生まれなんですね。ビートルズでいえばジョンやリンゴの1つ下、ポールの1つ上。なるほど~。ビートルズのカバーを盛んにやってたのは、もちろん大ヒットにあやかろうという思惑はあったにせよ、なんか同世代感みたいなのもあったのかな、と、なんとなく微笑ましくも思われてくるわけで。

 さて、1941年2月11日、ブラジル・リオデジャネイロからグアナバラ湾を挟んで東に位置するブラジルのニテロイで、医師の息子として生まれたセルジオ・メンデス。幼いころの3年間、骨髄炎のためギブスをつけなければならないような生活を余儀なくされたが、父親が医者だったため、ブラジルで最初にペニシリンを投与されたひとりとなったという。

 クラシックのピアニストを目指して音楽学校に入ったものの次第にジャズに傾倒し、1950年代後半、ちょうどボサノヴァが生まれたころには、ナイトクラブで演奏するようになっていた。やがて、ブラジルにツアーに来るアメリカのジャズ・ミュージシャンたちと共演するようになった彼は、セステート・ボッサ・リオを結成し、1961年にアルバム『ダンス・モデルノ』を発表する。20歳のときだった。このアルバム、すべてインストゥルメンタルで、いわゆるジャズ・ボッサ的な演奏もあるが、コンガやボンゴをフィーチャーしたマンボやチャチャチャといったニューヨーク・ラテン的な演奏も聞かせているのが興味深い。いずれにしてもピアノはそうとうに成熟した素晴らしい演奏を聞かせているのが印象的だ。

 そして翌年11月、ニューヨークのカーネギーホールで開催されたアメリカで初めてのボサノヴァ・コンサート『ボサノヴァ・アット・カーネギー・ホール』にジョアン・ジルベルト、ルイス・ボンファ、ミルトン・バナナらとともに出演。さらに12月には、アルトサックスのキャノンボール・アダリーがセステート・ボッサ・リオをバックに録音し、アルバム『キャノンボールズ・ボサノヴァ』(1963年発表)としてリリースされることになった。

 おそらくこれがきっかけとなって、63年には渡米。音楽活動を試みるも、ミュージシャンズ・ユニオンの関係でいったんは国外退去を命じられるが、シェリー・マン、バド・シャンクら西海岸のジャズマンたちが彼を地元のユニオンに加入させたという。こんな才能をこのまま帰国させるのはもったいない、ということだったのだろうか。こうしてセルジオ・メンデス&ブラジル'65を結成した彼は、キャピトル・レコードとアトランティック・レコードからインストゥルメンタル中心のジャズ・ボッサなアルバムをリリース。しかし芳しいセールスはあげられなかった。前年、64年に発表された『ゲッツ/ジルベルト』があまりにも大成功をおさめ、その陰に隠れてしまったのかもしれない。

 そんな中で心機一転、ハーブ・アルパートとジェリー・モスによるA&Mレコードと契約すると、英語とポルトガル語の両方で歌えるアメリカ人の女性シンガーふたりをフィーチャーした新しいグループ、ブラジル'66を結成。1966年に発表した『ハーブ・アルパート・プレゼンツ・セルジオ・メンデス&ブラジル'66』から、ジョルジ・ベンのカバー「マシュ・ケ・ナダ」が全米シングル・チャート47位、イージー・リスニング・チャートで4位というヒットを記録。ポルトガル語での(おそらく)初の世界的ヒットとなった。また、アルバムも全米チャート7位、ジャズ・アルバム・チャートで2位という大ヒットとなったのである。ジャケット写真を見ても当時の映像を見ても、到底そうは思えないが、このとき彼は25歳。ブラジル音楽とジャズをベースに、英語とポルトガル語のバイリンガルで、それまでになかった音楽を作りあげたのだ。まさにセルメン・サウンドの誕生である。

 こうして一気に人気を獲得。1968年4月には、アカデミー賞授賞式で、アカデミー賞にノミネートされた「ザ・ルック・オヴ・ラヴ」を披露したことで、彼らのヴァージョンは瞬く間にトップ10入りを果たし、最高位は4位に。同じ年、「フール・オン・ザ・ヒル」と「スカボロー・フェア」も大ヒットとなり、スターの座を確実なものにした。1970年6月には大阪での万国博覧会にも出演している。

 ビートルズが世界を席巻し、米国にブリティッシュ・インヴェイジョンが押し寄せ、ニューロックが生まれ、ファンクやソウルが台頭し、ブーガルーが爆発していた60年代半ばに世界の音楽シーンに飛び出したセルメンの音楽は、そのどれとも違っていたし、誰も聞いたことのない音だった。そして、ブラジル音楽とはいえゲッツ/ジルベルト的なジャジーで大人な世界(世代的には10歳ぐらい違う)とは一線を画して、ロックの感覚に溢れていたのだ。そのうえ、雑にいっちゃえば、めっちゃくちゃオシャレなサウンドなのである。これは本当に衝撃だったはずだ。ブラジル音楽への貢献という意味では、セルメンに優る人はいないのではないか?とまで思ってしまう。

 しかし、70年代に入り、アメリカの音楽シーンは “シンガーソングライターの時代” に入り、さらに、70年代半ばからは、ディスコ、あるいはパンク~ニュー・ウェーヴの時代へと移行していく。ブラジル’77、ブラジル’88と名前を微妙に変えながら活動を続けたものの、その人気が米国内では少しずつ低下していくことになったのは仕方がないところだったかもしれない。ただ、考えてみると、このころに一世を風靡したフュージョンは、ジャズとブラジル音楽をミックスしたテイストのものが多く、いってみれば、セルメンがその元祖ともいえるのである。が、当時、セルメンはあまりフュージョンとはとらえられていなかったように記憶している。もしかしたら、フュージョンというにはブラジル色が強い、ということだったのだろうか?

 そんな中で80年代に入り、再びA&Mレコードと契約すると(実は、ブラジル’66のシンガーだったラニ・ホールがソロとなりアルパートと結婚したことで、一時期仲たがいしていたそうだ)、今度はいわゆるAORテイストのアルバムを発表し、安定した人気をキープすることになる。

 特に、1983年のアルバム『セルジオ・メンデス』収録の「Never Gonna Let You Go(愛をもう一度)」(バリー・マン&シンシア・ワイルによる楽曲)は全米4位、アダルト・コンテンポラリー・チャートでは1位となり、復活を印象付ける作品となった。アルバム全体を通して、ブラジル・テイストが織り込まれたAORあるいはフュージョンといったサウンドで全米アルバム・チャートでは27位まで上昇している。

 この勢いで1984年にはアルバム『コンフェッティ』から、同年のロサンゼルス・オリンピックのテーマソングにもなった「オリンピア」や「アリバイズ」などがヒット。いわばAORの “大人が楽しめるポップス” の代表格として存在感を示していた。

 しかし、そうした活動に飽き足らなくなったのだろうか、1992年、カルリーニョス・ブラウンをはじめ、そのころめきめきと頭角を現してきたブラジルの新しい才能を迎えてアルバム『ブラジレイロ』をエレクトラ・レーベルから発表。米国の腕利きスタジオ・ミュージシャンたちを勢ぞろいさせたうえで、そこにブラジルの異才をブチ込んだこの作品はグラミー賞「ベスト・ワールド・ミュージック・アルバム」を受賞し、彼は再び、ポップなブラジル音楽のマエストロとしての存在感を示すようになった。そしてその後も、ブラジル'66のアップグレード・ヴァージョンともいうべきアルバムを発表していくことになる。

 そんな彼にとって、とりわけ大きな意味を持つことになったのは、2006年のアルバム『タイムレス』だろう。少し前から一緒にコラボするようになっていたというブラック・アイド・ピーズのウィル・アイ・アム(will.i.am)が共同プロデュースをつとめたこのアルバムには、ジョン・レジェンド、Qティップ、ジャスティン・ティンバーレイクほかさまざまなゲストが多数参加、サンバ、ボサノヴァはもちろん、ネオ・ソウル、ヒップホップ、レゲトンなど多様なテイストを感じさせる内容となっている。ブラック・アイド・ピーズが参加したリード・シングル「マシュ・ケ・ナダ」はCMやビデオゲームにも起用されるなど、改めて楽曲の魅力をアピールすることにもなった。また、ジャケットは彼の米国デビュー盤といえる『ザ・スウィンガー・フロム・リオ(別名『ボッサ・ニュー・ヨーク』)』にトリビュートしたもので、米国進出40周年を記念するものともなっていた。

 さらに、2012年にはアニメーション映画『リオ』の「リアル・イン・リオ」の共同作曲者としてアカデミー賞オリジナル楽曲賞にノミネート。2011年の『リオ』と2014年の続編という、故郷を題材にした2つのアニメ映画のサウンドトラック・アルバムで共同プロデューサーをつとめることになった。そして2020年には、彼の半生を描いたドキュメンタリー映画『セルジオ・メンデス:イン・ザ・キー・オブ・ジョイ』が製作されている。


 そんな中でセルジオ・メンデスは、去る9月5日、ロサンゼルスの病院で亡くなってしまったのだ。新型コロナ・ウィルスの後遺症を患っていたという。

 映画『セルジオ・メンデス:イン・ザ・キー・オブ・ジョイ』の中で、クインシー・ジョーンズは彼についてこう語っている。
「彼がやったのはガンボだよ。そのガンボがすごく上手く行ったんだ」

 さらにウィル・アイ・アムは
「彼は通訳なんだ。ブラジルでいま何が起こってるのかを世界に伝える通訳だ」

と語る。まさに、ブラジル音楽をベースに、常に世界とつながっていたセルジオ・メンデス。そしてまた映画には彼自身のこんな言葉が出てくる。

「英語ですごく好きな言葉がある。それは『センレンディピティ』だ。それが僕の人生の物語なんだ」

セレンディピティ…… 素敵な偶然に出会ったり、予想外のものを発見したり、ふとした偶然をきっかけに幸運をつかみ取ること。

 その卓越したピアノの技術、抜群の音楽センスと才能によって、彼はずーっとセレンディピティな人生を駆け抜けてきたのだ。だけど、それがセレンディピティだっていうのは、謙遜が過ぎると思いますけどね(笑)

(ラティーナ2024年9月)



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