[2023.4]【追悼】芸術は長く、人生は短い ⎯⎯ 坂本龍一さんに捧ぐ
文●中原 仁
3月末、昨年亡くなった音楽プロデューサー、宮田茂樹さんを偲ぶ会の会場に、新緑の季節を先取りしたと思えるほど鮮やかな緑色の花が飾られていた。それが坂本龍一さんから贈られた花であることを聞いて何人かの出席者と、約2週間前に坂本さんが病床から明治神宮外苑の再開発に反対する手紙を都知事に送ったことなどに触れて、早く元気になって戻ってほしい、と話していたのだが ……。
その数日後に訃報が届き、しかも坂本さんが亡くなれられたのが3月28日で、偲ぶ会の日にはすでに天国に昇られていた事実を知り、愕然とした。
坂本龍一さん(1952年1月17日~2023年3月28日)、教授(ここからは敬意と親しみをこめて “教授” と書かせていただく)と知り合ったのは1975年末、芸大大学院在学中の教授がシュガー・ベイブのコンサートにサポート・ピアニストで参加していた頃だった。教授が現代音楽系のフリー・ミュージックを演奏するライヴを聴いたこともある。
その後、僕の中高の同級生、生田朗(88年、メキシコで交通事故死)が教授の初代マネージャーとなったこともあり、70年代後半は場と時間を共有することが増えた。79年、教授がプロデューサーをつとめた渡辺香津美さんの『KYLYN』チームのスタッフとしてツアーにも同行。同年、六本木ピットインで開催された、教授が座長となったライヴ「カクトウギセッション」のリングアナ(MC)をつとめた。坂本龍一&カクトウギセッション名義の企画アルバム『サマー・ナーヴス』は、レコード会社からボサノヴァ・アルバムを提案されたが教授(と生田)がレゲエ・アルバムを逆提案した、という裏話もある。
79年当時、教授の周辺で話題にのぼることが多かった音楽は、レゲエ(この年、ボブ・マーリィ&ザ・ウェイラーズが来日)とダブをはじめ、ファンク(主にジョージ・クリントン系列)、アフロビートなどで、ボサノヴァの話題が出ることはなかった。ただ、これは当時ではなく90年代初めに教授から聞いた話だが、10代からアントニオ・カルロス・ジョビンの音楽のファンだった彼は70年代中盤、ジョビンがクラシックのバックグラウンドを反映し交響曲を録音したアルバム『ウルブ』を聴いて “ボサノヴァだけではないジョビンの音楽の壮大さ、深さ” に感銘を受け、このアルバム、そして近い時期にリリースされたジョアン・ジルベルトの『アモローゾ』を “正座して聴いていた” という。ここに、後のMorelenbaum2/Sakamotoの『Casa』の原点がある。
芸大在学中から民族音楽も聴いていた教授のファースト・アルバム『千のナイフ』からはアジア的な旋律も聞こえてきた。YMOと『戦場のメリークリスマス』を経て、『ラスト・エンペラー』時代のアルバム『NEO GEO』(87年)では沖縄の民謡やバリのケチャを取り入れ、ネーネーズ結成前の古謝美佐子さんら3人をヴォーカルに起用した。
『Beauty』(89年)では「安里屋ユンタ」「てぃんさぐぬ花」を、前作に続いて古謝美佐子さん、我如古より子さん、玉城一美さん(当時はオキナワチャンズと名乗っていた)を起用して録音。「Diabaram」ではユッスー・ンドゥール(作詞、歌)をフィーチャーした。
このアルバムで多くの曲の作詞(英語)を担当、「Rose」ではポルトガル語で詩の朗読も行なったのが、アート・リンゼイ。この曲にはナナ・ヴァスコンセロスも参加していた。
『Beauty』を制作中の89年7月、教授はアート・リンゼイをフィーチャーしたコンサートを東京のMZA有明(バブル期の象徴)で行なった。ニューヨーク在住のシロ・バチスタ(パーカッション)も参加。アートがポルトガル語で歌った曲もあり、教授の音楽とブラジル音楽の接点が初めて形として聞こえたコンサート、と僕は記憶している。
その後、ニューヨークに拠点を移した教授は、アートがプロデュースしたブラジルのアーティストの録音に参加するようになった。まず、マリーザ・モンチのセカンドアルバム『マイス』(91年)。92年、マリーザの初来日前にリオで行なったインタビューから、教授に関するコメントを引用しよう。
「サカモトの音楽は、全部じゃないけど、たとえば “ラララララー ……” (「戦メリ」テーマ曲を歌う)は、よく知ってるわ。個人的にはアートを介して知り合った。サカモトはブラジル音楽にとても関心を抱いている人ね。ジョビンを尊敬しているし。サカモトはキーボード・プレイヤーであるだけでなく、どんなハーモニーの難題でも解決してくれるマエストロ。最初はピシンギーニャの曲「Rosa」のオーケストレーションを行なうだけの予定だったけど、結局ほとんどの曲で自ら演奏し、アレンジを引き受けてくれた。とても大事な存在だった。彼の仕事はとてもハード。私たちみんながハードなんだけど(笑)」
この言葉の通り、教授は「Rosa」のほか「Ainda lembro」「Ensaboa」「Eu sei」「Mustapha」の5曲に参加した。
マリーザの映像ソフト『Mais』で「Rosa」を録音中の風景、教授のひょうきんな仕草を見ることもできる。
同じく91年、アートがプロデュースしたカエターノ・ヴェローゾの『シルクラドー』。教授は「Neide Candolina」と「Lindeza」の2曲に参加した、後者はカエターノとのデュオだ。
そして、運命の出会いが訪れる。『シルクラドー』発売後のカエターノのニューヨーク公演を聴きに行った教授は、カエターノのバンドに参加したジャキス・モレレンバウムの演奏を聞いて衝撃を受け、「僕はこの人と一緒にやらなければいけないと思いました」。
その後、2人はコンサートで共演。95年、ブラジルで開催された「ハイネケン・コンサート」の、ジャキスが中心となったコンサートに教授が出演。カエターノ、パウラ・モレレンバウムとも共演した。
リオに滞在中、ジャキス&パウラ夫妻の計らいで、前年に世を去ったアントニオ・カルロス・ジョビン宅を教授は訪問。アナ未亡人に頼んでジョビンのピアノを弾かせてもらった。これもまた『Casa』の原点だ。
ちょっと時期が前後するが、教授のグート・レーベル発足第1弾アルバム『Sweet Revenge』(94年)にはジョビン・ライクなインスト曲「Anna」をはじめボサノヴァ・タッチの曲が複数あり、ギターはホメロ・ルバンボ、パーカッションはシロ・バチスタ。うち1曲はアート・リンゼイが歌っていた(作詞はデヴィッド・バーン)。
続く『Smoochy』(95年)でも、ボサノヴァ調の「Tango」を録音(作詞は大貫妙子さん)。ジャキス(チェロ)とパウラ(バッキング・ヴォーカル)が参加した曲も多い。また、前作の録音とワールドツアーに参加した高野寛さん(後年のフォトブック『RIO』に「ツアーのセットリストにボサノヴァの曲があって、自分の音楽の辞書の中にはなかったブラジル音楽に初めて触れることになる」との記述あり)、前年にザ・ブームの『極東サンバ』を発表しブラジルに急接近中だった宮沢和史さんが、それぞれ作詞した曲がある、というのも、たまたまとか偶然といった言葉だけで片付けられない縁を感じる。
96年には、リオからニューヨークに転居したヴィニシウス・カントゥアリアのアルバム『Sol na cara』(ヴィニシウスとアート・リンゼイの共同プロデュース)をヴィニシウスと教授の2人で録音。当時、ブラジルでも日本でも蠢いていた “なんちゃってボサノヴァ” を一網打尽にする痛快なボサノヴァ解体新書だが、サブスクには公開されていないのでYouTubeのリンクを貼っておく。
同じく96年発売の、エイズ・チャリティーのシリーズ・アルバム『RED HOT+RIO』。セザリア・エヴォラとカエターノ・ヴェローゾの歌、教授のキーボード、ジャキスのチェロ、ヴィニシウスのギターとパーカッションらによる、ジョアン・ジルベルトの歌で名高い曲「エ・プレシーゾ・ペルドアール」が収録された。このアルバムは、亡くなったアントニオ・カルロス・ジョビンへのオマージュも兼ねていた。
そして2001年、ジャキス&パウラとのユニット、Morelenbaum2/Sakamoto(以下M2Sと表記)による、アントニオ・カルロス・ジョビンの音楽を室内楽のアプローチで表現したアルバム『Casa』を発表。日本を含むワールドツアーを2003年まで行なった。M2Sについては、本稿に合わせてアーカイヴされた月刊ラティーナ時代の記事「ジョビンへの募る想い……- モレレンバウム夫妻と坂本龍一の友情が構築させた、扉に鍵の無い家、『CASA』」(2001年)、「坂本龍一が語る ――バンドとして確立したM2Sと、その未来」(2003年)をご一読ください。
2006年に新レーベル、コモンズ(commmons)を設立。naomi & goroのアルバムにゲスト参加し、伊藤ゴローさんをジャキス・モレレンバウムに紹介した。
2013年、ゴローさんプロデュースの『ゲッツ/ジルベルト+50』、細野晴臣さんが歌った「プラ・マシュカール・メウ・コラサォン」、ジャキスをフィーチャーした「オ・グランヂ・アモール」の2曲に参加した。
ここでひとつ、実現しなかった企画をあげておこう。2013年末、教授から連絡があった。2010年から何シーズンかに分けて放送してきたNHK Eテレの番組「スコラ 坂本龍一 音楽の学校」でブラジル音楽をやることになった、ついては講師の一人をつとめ、3回の放送の構成も手伝ってほしい、という嬉しくも光栄なオファー。2014年に入ってすぐNHKのディレクター、もう一人の講師の方と打ち合わせを進め、番組内で子供たちにサンバのリズムを教える講師として、現在は妖怪画家としても名高い打楽器奏者、渡辺亮さんを推薦。亮さんは、教授の曲「千のナイフ」のリズムはサンバだ!と力説、ノリノリで引き受けてくれた。
2014年夏、M2Sの11年ぶりのライヴとなる東京公演が予定されていたので、ジャキスも迎えて番組を!と盛り上がり、ディレクターが企画書を完成させた直後の7月、教授が中咽頭癌であることが判明し、治療のため活動休止。「スコラ」のプロジェクトは頓挫してしまった。長年にわたっていろんな影響を受け、学ばせてもらった教授に少しでも恩返しできる機会、と意気ごんでいたので残念だったが、ゆっくり療養して全快してほしいと願っていたら翌年、思いがけず嬉しいニュースが飛びこんできた。
2015年5月、マリーザ・モンチを中心にアート・リンゼイ、セウ・ジョルジらが出演したニューヨーク・ブルックリンでのコンサート「SAMBA NOISE」に教授が出演して演奏!順調な快復を知ることができる、嬉しいサプライズだった。
その後、教授は活動を再開。2017年には「ジャパン・ハウス・サンパウロ」のオープン記念コンサートにM2Sで出演した。
月刊ラティーナ時代の記事「MORELENBAUM2/SAKAMOTO~ジャパン・ハウス サンパウロ開館記念コンサート」(2017年)のアーカイヴもご参考に。
2021年、再び癌に侵されたことを知ってからも、中咽頭癌を早期に克服した教授だけに、必ずや元気になってまた帰ってきてくれると信じていたので、訃報を知って約1週間が経過した今も正直、言葉がない。
“世界のサカモト” は、社会派としての活動にも熱心だった。2001年、地雷除去運動のために国内外の大勢の音楽家たちと共に録音した曲「ZERO LANDMINE」。同年、身近に体験した9.11以降、ことあるごとに発言してきた「非戦」。2007年に発足した森林保全のプロジェクト「more trees」。東日本大震災の復興を支援する多様なプロジェクト、そのひとつ、東北ユースオーケストラ。原発反対。そして冒頭にあげた、明治神宮外苑の再開発反対。これらに今一度、目を通してみると、特に地球環境問題について、教授と “同じ家系” の先人がいたことを思い出す。アントニオ・カルロス・ジョビンだ。
これは坂本龍一さんの訃報の公式発表に、故人が生前、愛した言葉として引用されていた。この一文の出典はヒッポクラテスの書籍だが、すぐに思い出したのが、アントニオ・カルロス・ジョビンの遺作『アントニオ・ブラジレイロ』に収録されていた曲「ケリーダ」。ジョビンも自作の歌詞の中で、こう歌っていた。
天国で初対面した教授とジョビンはきっと、この言葉を交わしたことだろう。
(ラティーナ2023年4月)
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