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[2022.12]追悼 パブロ・ミラネス 〜世界に影響を与え、その死には世界中から悼む声が届いた...パブロ・ミラネスの偉大な足跡を辿る...

文●太田 亜紀 texto por Aki Ota 

 パブロ・ミラネスが逝ってしまった。数年前から血液腫瘍のため療養していたマドリードで去る2022年11月22日に病状が悪化し、79歳で亡くなったと公式ホームページで報じられた。キューバ、ラテンアメリカ、世界中のアーティスト、文化人、政治家らからSNSを通して、またはコンサートや公の場でその死を悼むメッセージが寄せられている。

▼世界から寄せられた悲しみの言葉

▼オマーラ・ポルトゥオンド

Omara Portuondo

 「なんていう大きな痛みでしょう。クアルテート・ダイーダのアイダ・ディエストロにパブロを紹介されて以来、私たちは友達になり、姉弟になった。パブルーチョ、あなたはキューバ人みんなの心のなかに、そして私の心、家族の心のなかにいつまでも生き続ける」。
(オマーラ・ポルトゥオンド)

▼シコ・ブアルキ

Chico Buarque y Pablo Milanés

 「伝説のパブロ・ミラネスとの別れに際し。
 1978年に文学コンクールの審査員としてキューバに招待され、シコ・ブアルキはパブロ・ミラネスに出会った。出会いから歴史的な関係が生まれた。「ヨランダ(Yolanda)」(1986年)はあの出会いの最も美しい結果の一つである」

(シコ・ブアルキ)

アナ・ベレン

Ana Belén

 「親愛なるパブロ、あなたに会えて光栄だった。永遠に。あなたの家でまたデスカルガ(ジャム・セッション)をする約束が果たせていない。あなたの誕生日の最後のお祝いを懐かしく思い出している」
(アナ・ベレン)

フィト・パエス

Pablo Milanés y Fíto Páez

「宇宙の大きさほどあなたを懐かしく思う。でも世界中のすべての街で毎日あなたに歌を歌おう」。(フィト・パエス)

▼エウヘニア・レオン

Eugenia León

「ラテンアメリカにとってかけがえのない声、パブロ・ミラネスが逝ってしまった。親愛なるパブリート、いい旅を」。(エウヘニア・レオン)

▼アレハンドロ・サンス

Alejandro Sanz


「親愛なるパブロ、あなたが逝ったことに憤りを覚える。でもあなたが存在してくれたことが幸せだった。あなたの音楽をありがとう」。(アレハンドロ・サンス)

▼ミゲル・ディアス・=カネル・ベルムーデス キューバ大統領

Miguel Díaz-Canel

「パブロが亡くなった。火曜、ロシアで目が覚めて一報を知り、心痛を覚えた。私たちの最も偉大な音楽家の一人の肉体がこの世を去った。…。私たちの世代のサウンド・トラックから切っても切り離すことができない声」。(ミゲル・ディアス=カネル・ベルムーデス/キューバ大統領)

▼アンドレ・マヌエル・ロペス・オブラドール メキシコ大統領

Andrés Manuel López Obrador

「偉大なシンガーソングライターだった。本当にたくさんの人が彼の歌を聞いた。私たちは彼の音楽からたくさんの恩恵を受けた。音楽界にとって、トローバにとってとても嘆かわしい損失だ」
(アンドレス・マヌエル・ロペス・オブラドール/メキシコ大統領

▼ペドロ・サンチェス スペイン首相

Pedro Sánchez Pérez-Castejón

 「あなたに代わり、またまたあの街角を踏みしめ、いなくなった者たちに涙するだろう。パブロ・ミラネスの音楽は永遠に私たちとともにある。一世代のみんなの命と感情に声を付した。永遠に私たちの記憶のなかにある」。(ペドロ・サンチェス/スペイン首相)

グスターボ・ペトロ コロンビア大統領

Gustavo Petro

「パブロ・ミラネスが去り、芸術は音楽を置き去りにした」
(グスタボ・ペトロ/コロンビア大統領)

▼ニコラス・マドゥーロ ベネズエラ大統領

Niclás Maduro

「ラテンアメリカの音楽・文化界はトローバの偉人、マエストロ、シンガーソングライター、パブロ・ミラネスを失った。彼の美しい詩と歌声は永遠に不滅だ」。(ニコラス・マドゥーロ/ベネズエラ大統領)

 あまりに大きな存在だった。キューバ、ラテンアメリカ、世界中のファンは、人生のそれぞれの時代にパブロの詩にどれほど多くの愛、勇気をもらったことだろう。ファンとして、パブロ・ミラネスの不在を受け止めるのは難しい。彼の声、存在は、キューバの日常風景のように当たり前のようにそこにあるものだと思っていた。

  私がパブロ・ミラネスの存在を認識し始めたのはいつだったか。少なくとも24年前、ハバナに留学をしていた1年間で「君はパブロ派か?シルビオ派か?」という質問をどれくらい聞いたことだろう?つまりパブロ・ミラネスとシルビオ・ロドリゲスのどちらが好きか、またそれはなぜか。およそ結論が出そうもないこのテーマでタクシーの中で、誰かの家のパーティーで、キューバ人は何時間も話し合うことができた。だから外国人留学生の私でも一応、この答えと理由はすぐに答えられるように用意してあった。「私はパブロの方が好き。パブロの方が、歌声が温かいし、詩の言葉がわかりやすいので」。そんな答えを言えば、質問を投げたキューバ人たちは一応、納得してくれていたようだった。

◆生い立ち

 パブロ・ミラネスは1943年2月24日キューバ東部の町、バヤモ生まれ。母親にその音楽の才能を見出され、幼い頃からラジオのアマチュア・ショー番組に出るようになった。50年代初め、一家でハバナに移り住んだ。「ラジオで毎日のようにオルケスタ・アルメンドラ、マリア・テレサ・ベラ、ロス・コンパドレス、その他多くのトロバドーレスの歌を聞いていた」。2019年、友人でキューバ人映像作家のフアン“ピン”ビラル氏が制作したドキュメンタリーでパブロ本人が幼少期の思い出を語っている。

 キューバの伝統音楽や当時全盛期だったフィーリンだけでなく、北米やブラジルの音楽からも強い影響を受けた。60年代前半にはガト・トゥエルトやホテル・サン・ジョンのバーなどハバナのナイトクラブに頻繁に登場するようになった。400曲以上の作品、40枚を超える単独でのアルバム(コラボレーションアルバムはそれ以上)を世に送り出したパブロの最初の作品「あなたに裏切られ(Tú, mi desengaño)」(1963年)にはフィーリンの影響を色濃く感じることができる。パブロはのちにフィーリンと題するアルバム7作を世に送り出している。

◆ヌエバ・トローバの誕生

 新しい音楽実験を試みたという「僕の22年間(Mis veintidós años)」(1965年)の誕生については、先述のドキュメンタリー映像でこう語る。「マルティン・ロハス、エドゥアルド・ラモスなど、当時新しい音楽を作りたいと感じていた多くの若者たちがチェコスロバキア文化ハウス(現在の国際プレスセンター)に集まった。僕らが座るのを防ぐためにフェンスのようなものが設置されると今度は“マイネの碑(マレコン通り)”に集まるようになった/ある時、その集まりがアーティストの集まりというよりは抗議活動のように見えたために警察が来て解散させられた/サン・ミゲル・デ・パドロンの従姉妹の家の屋上で、正確な日付は覚えていないが、ものすごい暑い日だったから夏の6月か7月だったと思う。僕は新しい音楽を作ろうと心に決めた。それまでのキューバ音楽のさまざまなメロディやハーモニーのスタイルを取り入れ、忘れられていたグアヒーラやソンなどを復活させ、一つのキューバ性(Cubanía)に合流させようとした/自分の内側の何かを変え、社会の内側の何かを変えて、具現化する必要性を感じていた」。

 キューバでは若いアーティストたちの欲求に突き動かされて、新たな音楽の潮流が生まれようとしていた。時を同じくして、1967年夏には第1回国際プロテスト・ソング祭(Encuentro Internacional de la Canción Protesta)がハバナのカサ・デ・ラス・アメリカスの呼びかけで開催され、ラテンアメリカ、米国、ヨーロッパから50人のシンガーソングライターが集結した。数ヶ月前に悲劇的な自死を遂げたチリのヌエバ・カンシオンの旗手ビオレータ・パーラの息子、アンヘルと娘のイサベルも参加していた。当時南米の軍事政権による市民への抑圧はますます激しく、アジアではベトナム戦争が起き、政治動乱の波は世界中に広がっていた。

60年代のパブロ。43の居住区を歩きながら、キューバ独特の雑踏の中で歌い、
社会的な使命を歌で表現するようになった。

 同年10月にはカサ・デ・ラス・アメリカスにプロテスト・ソングセンターが創設され、パブロは「どうして(Por qué)」などのメッセージソングを発表し、志を共にするアーティストらも次々と社会的な使命を歌った作品を発表した。1968年にはシルビオ・ロドリゲスと初めてカサ・デ・ラス・アメリカスでのコンサートを行った。1969年にはICAIC(キューバ映画芸術産業研究所)の呼びかけで「ICAIC音楽実験グループ(Grupo de Experimentación Sonora del ICAIC)」が結成された。当初の目的は映画、ドキュメンタリー映像の音楽を制作するというものだったが、作曲家/ギタリスト/指揮者、レオ・ブロウェルの指導の下、実際には新しい音楽を作る学校のような役割を果たした。それまで異なる音楽的潮流に属していたパブロやシルビオ、ノエル・ニコラ、エドゥアルド・ラモス、セルヒオ・ビティエル、のちにエミリアーノ・サルバドール、サラ・ゴンサレス、アマウリ・ペレスら若いミュージシャンが会合した。そして1972年若いトロバドーレスの会(Encuentro de Jóvenes Trovadores)がマンサニージョ市で開催された。ヌエバ・トローバは正式にここに陽の目を見た。ちなみに2022年の今年は奇しくもヌエバ・トローバ運動の誕生から50年を迎え、一年を通してさまざまな記念コンサートが開催されている。

◆ラテンアメリカの革命運動

 ヌエバ・トローバはキューバ音楽の伝統の流れを汲んだ新しい音楽への希求に、混沌とした当時の世界情勢を憂えた明確な政治メッセージが重なり、ラテンアメリカの民衆を代弁する声となっていった。彼らはチリやアルゼンチンのヌエバ・カンシオンのアーティストらとも交流を深め、1972年9月、パブロとシルビオ・ロドリゲス、ノエル・ニコラは初めてチリを訪れた。ヌエバ・トローバ黎明期にキューバを訪れたイサベル・パラがチリではほぼ無名の彼らのツアーの実現に向けて尽力した。そのわずか1年後、1973年にピノチェト将軍による軍事クーデターが起きた。パブロはチリの活動家ミゲル・エンリケスの死に際して、感動的なテーマ「またあの街角を踏みしめる(Yo pisaré las calles nuevamente)」を書いている。20数年が経った1998年、再び訪れたチリでカトリック大学の学生たちの前でパブロはこの曲を披露した。

 アルゼンチンでは軍政の終わりに差し掛かっていた1982年、亡命先から帰国したメルセデス・ソーサがブエノスアイレスのオペラ劇場のコンサートでパブロの「年月(Años)」やシルビオの「蛇たちの夢(Sueño con serpientes)」を歌った。この時の様子は2枚組LPとなって発表された。ヌエバ・トローバはアルゼンチン軍政下の検閲にあっても人々の手から手へとカセットテープが渡り、密かにそして大いなる情熱を持って聞かれた。マルビーナス(英名フォークランド)紛争の手痛い敗北を期して軍政が倒れた翌年の1984年、パブロとシルビオの二人は遂にアルゼンチン公演を実現させた。二人の初のアルゼンチン公演となったのだが、オブラス・サニタリアス・スタジアムを14回も満員にしたという。

Pablo Milanés 

 1985年にはシコ・ブアルキ、メルセデス・ソーサ、アナ・ベレン、ビクトル・マヌエル、ジョアン・マヌエル・セラート、ミゲル・リオス、アマヤ、ルイス・エドゥアルド・アウテ、シルビオ・ロドリゲスといったラテンアメリカ、スペインから錚々たるアーティストを迎え、アルバム『親愛なるパブロ(Querido Pablo)』を発表。キューバ人詩人、ニコラス・ギジェンの詩をアナ・ベレンと歌った「なんて静かなうちに(De que callada manera)」はパブロの代名詞となっている。その続編となった『親愛なるパブロ(Pablo Querido)』(2001)は、コロンビアのノーベル文学賞受賞作家、ガブリエル・ガルシア・マルケスの朗読に始まり、続いてフィト・パエス、ミルトン・ナシメント、カエターノ・ヴェローゾ、ガル・コスタ、ルセシータ・ベニーテス、パンチョ・セスペデス、ロス・バン・バン、イヴァン・リンス、タニア・リベルター、エウヘニア・レオン等、やはり名だたるアーティストが勢揃いした。

◆愛に生きた人

右がパブロの代表曲になった妻ヨランダ・ベネット、中央が娘のリン

 しかしパブロは愛に生きた人でもあった。繊細で詩的な歌詞と柔和で美しいあの歌声、それこそがもっともラテンアメリカの若者たちを惹きつけ、現在も惹きつけ続ける理由であろう。代名詞ともなった「ヨランダ(Yolanda)」(中村安志氏の記事を参照)はもちろん「君がいない短い隙間(El breve espacio en que no estás)」「ありのままに愛して(Ámame como soy)」といった愛の美しさや失恋の痛みを歌った歌は生涯を通してコンサートで観客にせがまれたレパートリーだった。2003年のスペインの新聞エル・パイス紙へのインタビューで「僕は生まれながらにして愛に苦しむ男だ。傷つきやすい男で些細なことに苦しむ」と語っている。その発言通り、「ヨランダ(Yolanda)」は2回目の妻ヨランダ・ベネットへの愛を捧げた歌だが、生涯で5回の結婚を経験している。ちなみに2004年から最期まで添い遂げた妻でスペイン人のナンシー・ペレスは、2014年に腎不全に苦しむ夫に腎臓を提供したことでも話題になった。

 パブロの愛娘、アイデ・ミラネスも父と同じ道を歩んだ実力派歌手だが、父の名曲の数々を歌ったデュオ作『AMOR』(2017年)を今、涙なしに聴くことはできない。父パブロが愛娘を引き立て、声質の相性がいいのは当然だが、とにかく溢れる愛に圧倒される。2019年に発売されたデラックス版(2枚組)はオマーラ・ポルトゥオンドやシルビア・ペレス・クルス、フランシスコ・セスペデスら、本当に豪華なゲストが入り、こちらも必聴である。 

◆キューバ革命との複雑な関係

 1959年1月キューバ革命の成功によって、ラテンアメリカのみならず世界中の若者はよりよい社会への理想を夢見た。パブロもその一人であったに違いない。革命家を自負していたパブロ青年はしかし突如として、軍のUMAP(生産援助部隊)への連行を知らせる電報を受け取る。UMAPは当時の政権が、再教育を必要とみなした人間が送られるところで、強制労働を伴うカマグエイにある収容所だった。当時の妻(1回目の結婚)への手紙で彼は「これ以上は耐えられない。このままでは正気を失ってしまう」と書いた後、部隊を脱走する。のちにパブロはあの場所は「スターリン主義収容所」であったと語り、自身は「僕は同性愛者や薬物使用者、反体制派だったから送られたわけではなく、僕が革命に関する意見を自由に表現していたことが原因で送られた」と語っている。キューバ革命支持者でありながら、意見の食い違いが原因で強制労働を課せられたのである。2015年のインタビューであれは間違いだったというキューバ政府からの謝罪は一度もなく、「あれは23歳の若者にとって恐ろしい体験だった」と語った。しかし1967年に音楽界に復帰したパブロは革命を讃えるメッセージ・ソングを歌い、革命の声となった。

シルビオ・ロドリゲス、フィデル、パブロ・ミラネス

 90年代にはキューバの人民権力全国会議の議員にも就任したが、「私は革命の旗手であって、政府の旗手ではない」と、常にその独立性を貫いた。2021年7月に起きたハバナでの大規模な反政府デモで1,400人以上の市民が逮捕された(*)ことを受け、「何十年にもわたって政権を支えるために犠牲となり、全てを捧げた市民を最終的に逮捕し、罪をかぶせ、抑圧するのは無責任でナンセンスだ」と公言している。
(*ヒューマン・ライツ・ウォッチ報告)

 ヌエバ・トローバの担い手として共に名を連ねたシルビオ・ロドリゲスとは、政治的意見の違い等で90年代から少しずつ公の場で共に姿を現すことはなくなり、彼についてインタビューで聞かれてもパブロは「答えたくない」と言い続けたために、詳しい理由を知ることはできない。しかしシルビオもパブロの訃報に接し、1969年作の「パブロ」の歌詞をSNS上にあげ、その死を悼んだほどにパブロの存在感は彼にとって大きなものであり続けたのだろう。それはキューバ政府にとっても同じだった。2021年7月の反体制デモを支持するようなコメントがあったにも関わらず、ミゲル・ディアス=カネル大統領やキューバ政府高官が追悼コメントを発表している。

◆キューバ性

 亡くなるおよそ5ヶ月前の6月21日にはハバナのシウダー・デポルティーバの劇場で最後のハバナでのコンサートが行われた。すでに病を患っていたが椅子に腰掛け、20曲ほどを歌い、会場の老若男女が一緒に声を合わせた。新型コロナウィルス感染拡大の影響で3年ぶりとなったコンサートは、当初は国立劇場(2000人収容)での開催が予定されていたが希望者があまりにも多く、15,000人収容の会場に変更になった。

ハバナのマレコン通り

 2008年のエル・パイス紙のインタビューで「マレコン通りを歩かなければ、病気になってしまう。あの日の光、あの海を見て、そして特にあの人たちの顔を見ないといけない」と語っている。パブロとキューバの人々との関係は相思相愛だった。

 亡くなった翌日11月23日、遺族の意向でマドリードのカサ・デ・アメリカ「セルバンテス・サロン」に棺が設置され通夜が執り行われたいっぽう、ハバナではパブロ自身のレーベルPMレコーズのスタジオで記帳をするために多くの弔問客が訪れた。またハバナのエルマノス・サイス協会のキューバ・パビリオンの中庭で追悼コンサートが行われ、エドゥアルド・ソーサ、パンチョ・アマート等が生前のパブロの名曲を披露し、訪れた弔問客も声を揃えた。

ヌエバ・トロバの創始者であるパブロ・ミラネス氏は、
マドリッドの葬儀用礼拝堂で、一般の人々や家族から別れを告げられた。

                ◆

 キューバを愛し、キューバに愛され、また世界中の市民を愛し、愛された最高のトロバドール、詩人、友人、そして一人の傷つきやすく繊細な男だった。彼のよりよい社会への理想、音楽に対する熱い思いは、若い頃から生涯、何も変わらなかったのかもしれない。夢想家だったといえるのだろうか。そして同時に現実とのいくつもの矛盾を経験し、傷つき、その人間らしい脆さ、繊細さ、そして彼の誠実な言葉が世界中のあらゆる場所で多くの人々の共感を生み、世界中のアーティストに友として慕われた。

 そしてパブロはわたしたちに途方もなく大きな遺産、たくさんの美しい詩と音楽を残してくれた。ありがとう、パブロ。ご冥福をお祈りします。

(筆者紹介)
太田亜紀(おおた あき)
 ラテンアメリカ音楽を愛するスペイン語通訳。 
 1998年1年間のキューバ留学を経てメキシコシティで旅行会社勤務。帰国後ラティーナ勤務。アルゼンチン担当として日々、タンゴやフォルクローレ他のアーティストに接する。現在はフリーランススペイン語通訳翻訳者。 清泉女子大学非常勤講師。

(ラティーナ2022年12月)

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