[2023.3]【新連載タンゴ界隈そぞろ歩き (1) 】サッカーとタンゴ
文●吉村 俊司 Texto por Shunji Yoshimura
最近のサッカーの大きな話題は、イングランド・プレミアリーグのブライトンで活躍する三笘選手の素晴らしい活躍であろう。一流のディフェンダーを軽々と抜き去るドリブルと絶妙のボールコントロールは、観る者を惹きつけて離さない魅力がある。
そんな彼が大活躍した2022年 FIFA ワールドカップが終わってから既に2か月。改めて振り返ると、日本チームの活躍とアルゼンチンの優勝という結末で、日本においてアルゼンチンに親近感を持っている者としてはこの上ない喜びが得られた大会だった。
興奮と寝不足の日々を過ごしつつテレビ観戦したアルゼンチンの試合で何度も耳にした歌がある。元歌は《ラ・モスカ・ツェツェ》というバンドの "Muchachos, ahora nos volvimos a ilusionar" (みんな、これでまた期待が高まったぞ)。今大会のアルゼンチンサポーターのチャント(応援歌)としてスタジアムで何度も大合唱が巻き起こり、選手たちもロッカールームで歌って闘志を燃やしていた。
元々この曲は "Muchachos, esta noche me emborracho"(みんな、今夜は酔っ払うぞ)のタイトルで2003年にリリースされたものだった。やがてアルゼンチンリーグのボカ・ジュニアーズ、リーベル・プレート、ラシン、インデペンディエンテといったチームのサポーターがこの曲のメロディを次々チャントに採用。そして2021年、教師をしているフェルナンド・ロメロという人物が友人と共に新しい歌詞を付ける。マラドーナとメッシが生まれた国であることを誇り、マルビーナスで戦死した兵士に敬意を表し、ここしばらくの代表チームの思うに任せない成績を嘆きつつも同年のコパ・アメリカでのブラジルに対する勝利を糧に、ワールドカップでの3度目の優勝を待望する。そんな歌を二人が歌った映像はたちまち拡散、バンドのリーダー、ギジェルモ・ノベリスの知るところとなり、この歌詞でワールドカップ向けに新たにレコーディングが行われた。その後については上述の通りである (参考:How Argentina’s Favorite Song Became the World Cup’s Soundtrack)。
さて、ほとんど第二の国歌のようになったこの歌は、残念ながらタンゴではない。タンゴは必ずしもアルゼンチン全土を代表する音楽ではないことに加え、タンゴの育ったブエノスアイレスにおいても現在は多くの人が声を合わせて歌う音楽の筆頭ではないのだ。とはいえ、歴史を遡ればサッカーと結びついたタンゴも数多い。というわけでようやく本題。サッカーにまつわるタンゴをいくつか拾ってみようと思う (ちなみに、狛江のコミュニティ FM 局コマラジで毎週日曜に放送されている「Marcy & Magi の Tango en Tokio」の月イチコーナー「吉村俊司の Viaje de Tango」にて2021年8月に同様のテーマを取り上げたことがあり、一部その時の情報と重複していることを予めお断りしておく)。
実は既に上の文章にもタンゴにつながるキーワードが出現しているのだがおわかりだろうか。タンゴ好きな方ならラ・モスカの曲のタイトルに入っている "Esta noche me emborracho" のフレーズに反応するかもしれない。確かにそのタイトルのタンゴ (エンリケ・サントス・ディセポロ詞曲) は「今宵われ酔いしれて」の邦題とともに有名だが、サッカーとは無関係である。答えはクラブチームのチーム名。上で「ラシン」と表記したチーム名は "Racing" と綴る。ビセンテ・グレコが1910年代に作った "Racing club" (タンゴの曲名としてはラシング・クルブと表記されてきた) はこのチームのことなのだ。同様にアグスティン・バルディ作の "Independiente club" (インデペンディエンテ・クルブ) は上述のインデペンディエンテのこと。いずれも古典タンゴの名曲として広く知られており、特に前者は録音も多い。100年程も昔に曲のタイトルとなったクラブチームが今も名門として活躍していること、その曲が今でも聴かれているということに、彼の国のサッカーとタンゴの歴史の重みを感じる。またこれらに比べると知名度は低いが "Boca Juniors"、"River Plate" という曲も存在する (前者はロドルフォ・シアマレーラ詞曲、後者はレオポルド・ディアス・バレス詞曲)。代表チームにまつわる曲では、1955年に南米選手権でアルゼンチンが優勝したことを記念して作られた "Argentina campeón" (チャンピオン・アルゼンチン、詞曲のクレジットはオスマル・マデルナ象徴楽団) がある。
ワールドカップそのものに関しては、1978年のアルゼンチン大会を記念して作られたアルバムがある。アーティストはアストル・ピアソラ。彼がヨーロッパを拠点にジャズやロックに接近した音楽活動を行っていた時期の最後のアルバムで、収録曲のタイトルは全てサッカーにちなんだものとなっている。
架空のストーリーに基づく曲では "La número 5" (ラ・ヌメロ・シンコ、レイナルド・ジソ詞、オレステス・クファロ曲) がある。アルフレド・ゴビ楽団の演奏ではホルヘ・マシエルの歌に加えてスポーツキャスターのフィオラバンティによる架空の試合の実況が挿入されるのが聴きもの。タイトルは「5番」を意味するが、冠詞が女性型の "la" であるのは何故なのか…これについては長くなるので別の機会にまた取り上げたい。
そしてもう一曲、"El sueño de pibe" (少年の夢、またもレイナルド・ジソ詞、フアン・プエイ曲) 。貧しい家のサッカー少年がクラブからの面接の知らせを受け、歓喜の涙とともに母親に成功を誓う。その夜見た夢の中、満員のスタジアムで彼は決勝ゴールを決める。サッカーにまつわるタンゴとしては最も有名な曲であろう。そんなこの曲を持ち歌としていたサッカー選手がいる。あのディエゴ・マラドーナである。貧しい家庭に生まれサッカーでスーパースターになった彼にとっては、自らの境遇にぴったりと重なる曲と感じていたに違いない。下の映像は彼がテレビで歌った音声に《エル・カチバチェ・キンテート》が後から伴奏を重ねたもの。無論プロの歌手とは比べられないが、余技としては上手い部類だし、何より説得力がある。
ここで使われた音声のオリジナルのテレビ出演や、サッカーの王様ペレの前でアカペラで歌う映像も YouTube に上がっているので、興味のある方は検索してみて頂きたい。他にもマラドーナはタンゴを踊ったり、1996年のロドルフォ・パグリエーレ監督の映画 "El día que Maradona conoció a Gardel" (マラドーナがガルデルと出会った日) に出演したり (ちなみにこの映画の音楽はロドルフォ・メデーロスが担当)、と比較的タンゴに縁があった。1960年生まれの彼の過ごした少年時代には、まだタンゴの黄金時代のかすかな残り香があったのだろうか。
さて、今回自らの悲願であるワールドカップでの優勝を果たしたメッシとタンゴとの縁は如何に。きっとほとんど縁はないに違いない…と思いきや、彼に捧げられたタンゴが存在した。タンゴ・エレクトロニコのグループ《アフター・タンゴ》が大歌手ラウル・ラビエをフィーチャーして2014年のワールドカップに向けてリリースした "Simplemente Lio" (まさしくリオ) がその曲。
ツイッター等で当時の反響を確認すると、ニュースサイト等ではそれなりに取り上げられてはいたものの、大きくバズったような形跡はない。ちなみにこの時のアルゼンチンは決勝でドイツに敗れて準優勝に終わる。ここから今回の大会までにはさらに8年の年月を要したことになる。果たして今回の偉業を讃えるタンゴは生まれるだろうか。マラドーナに比べると物静かで控え目なメッシは引退後に歌ったり踊ったりすることはあるだろうか。
取り上げた楽曲で文中に埋め込んでいないものをまとめた。残念ながら "River Plate" と "Argentina campeón" は Spotify にはなかったが、楽しんで頂ければ幸いである。
(ラティーナ2023年3月)
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